8

その土地に戻るつもりは、なかった。

道を間違えただけだ。
遠回りを避けた結果、
あの集落へ続く分かれ道が、また現れただけだった。

青年は、足を止めた。

「……ここは」
「前に寄ったな」
男は淡々と言う。
「水がある」

青年は、何も言えなかった。
引き返す理由も、進む理由も、
どちらも同じ重さだった。

結局、二人は再び井戸のある広場へ出た。

掲示板はそのまま残っていた。
炭の文字も、消えていない。

――ユリ
――二名

青年は、目を逸らした。

「おや」

声がした。

前に記録をつけていた、あの年配の女だった。

「戻ってきたんだね」
「……はい」
男が答える。

女は、青年を見て、少し首を傾ける。

「あなた」
「……」
「前にも、来たでしょう」

青年の心臓が、一拍遅れて鳴った。

「……覚えて、いたんですか」
「ええ」
女は笑う。
「名前、書いたからね」

それだけの理由だった。
強い印象も、特別な思い入れもない。

ただ――
名を残したから、思い出された。

「ユリ、でよかったかい?」

呼ばれた。

声は穏やかで、
何の期待も、責任も含んでいない。

それでも青年の胸に、
確かな重みが落ちた。

「……はい」

返事をしてしまった。
逃げなかった。
誤魔化さなかった。

「よかった」
女は頷く。
「ほら、あの子」

井戸のそばで、子どもが手を振っている。
以前、水を汲んだときの子だった。

「この前ね」
女は言う。
「“また来るかな”って言ってたの」

青年は、息を詰めた。

「……期待、させてしまいましたか」
「期待、ってほどじゃないよ」
「“また会うかも”ってだけ」

その「だけ」が、青年には重すぎた。

男は、何も言わずに立っている。
逃がしもしないし、
背中を押しもしない。

青年は、ゆっくりと子どもの前へ行った。

「……こんにちは」
「こんにちは!」

それだけだった。
特別な会話はない。
何かを頼まれることもない。

けれど子どもは、当たり前のように言った。

「ユリ、また来たね」

青年は、微かに笑った。
ぎこちなく、
それでも確かに。

「……うん」



集落を離れたあと、青年はしばらく黙って歩いた。
やがて、言葉を落とす。

「……呼ばれてしまいました」
「おう」
「消えたら」
「なかったことに、できたはずなのに」

男は、歩調を緩める。

「それで」
「はい」
「どうだった」

青年は、しばらく考えた。

「……怖かったです」
「うん」
「でも」
「“戻ってきた”ことを」
「怒られなかった」

男は、短く息を吐いた。

「そうだな」

青年は、空を見上げる。

「名前を持つって」
「……」
「戻れる場所が、増えることなんですね」

男は、答えなかった。
代わりに、歩き出す。

青年も、続く。

掲示板に残った“ユリ”は、
また消えない。

けれど青年は知っている。

呼ばれてしまったのに、
それでも歩き続けられた――
その事実が、もう一つ、世界に残ってしまったことを。