9

その夜、火は小さかった。

薪を足せば明るくなる。
けれど男は、あえてそうしなかった。

暗さに慣れた視界の中で、
青年は焚き火の端に膝を抱えて座っている。

長い沈黙のあと、青年が言った。

「……仮名を、使い続けるつもりでした」
「おう」
「でも」
「……呼ばれてしまった」

男は、頷くだけだった。

「名前を持つって」
青年は続ける。
「思っていたより、逃げ場がありませんね」

火が、ぱちりと鳴る。

「それで」
男は低く言う。
「どうした」

青年は、しばらく黙っていた。
唇を開いては閉じ、
何度も息を整える。

「……条件があります」
「聞こう」
「呼ばないでください」
「……ああ」
「覚えるだけで、いいですか」
「できる」

それで、十分だった。

青年は、ようやく男を見る。

「僕の名前は」

一瞬、声が止まる。
名前は、喉を通る前に一度、胸に落ちた。

「……レイです」

焚き火の音以外、何も変わらない。
夜も、風も、星も。

男は、すぐには何も言わなかった。

「重いか」
しばらくして、そう尋ねる。

「……はい」
「それでも、言ったな」
「……はい」

男は、焚き火を見つめたまま言う。

「ありがとう」

それだけだった。
祝福もしない。
意味づけもしない。

青年は、肩の力が抜けるのを感じた。

「……不思議ですね」
「何がだ」
「名前を渡したのに」
「……軽くなりました」

男は、小さく息を吐いた。

「預けたからだろ」
「……預ける?」
「手放すのとは、違う」
「抱え続けるのともな」

青年は、その言葉を反芻する。

「……あなたは」
「ん」
「僕の名前を」
「呼びたくなったら、どうしますか」

男は、即答しなかった。
少し考えてから、言う。

「呼ばねえ」
「……」
「呼ばなくても」
「分かる距離にいる」

青年の目が、わずかに揺れた。

「……それは」
「ずるいです」

男は、笑った。

「昔から言われる」

青年は、焚き火を見つめる。

「……レイ、という名前は」
「……」
「残ってしまっていい名前、だと思いますか」

男は、静かに答える。

「思う」
「理由は」
「俺が、覚えた」

それは、論理ではなかった。
ただの事実だった。

その夜、青年は眠った。
夢を見た。

誰かに呼ばれる夢ではない。
呼ばれなくても、そこにいる夢だった。