その土地は、道の途中に“置かれているだけ”の集落だった。
宿も酒場もない。
代わりに、小さな礼拝堂と掲示板がある。
二人は水と干し肉を求めて立ち寄っただけだった。
長居するつもりはない。
青年は、そう思っていた。
井戸のそばで、年配の女が声をかけてきた。
「旅の方かい」
「そうだ」
男が答える。
「記録だけ、つけさせてもらえる?」
女は掲示板を指した。
「最近は物騒でね。誰が通ったか残す決まりなの」
青年の胸が、わずかに跳ねた。
「……通った、だけでも?」
「ええ。名前と人数だけ」
男は気にも留めずに言った。
「二人だ」
「お名前は?」
女は炭筆を構え、当然のように待つ。
男が名を告げる。
それは軽く、慣れた調子だった。
「……そちらの方は?」
視線が、青年に向く。
青年は、言葉を失った。
名前。
それは、記憶に残るための“取っ手”だ。
掴まれるための形だ。
「……」
「書かなくてもいいけど」
女は穏やかに言う。
「何かあったとき、呼べなくなるよ」
“呼ばれる”。
青年の喉が、ひくりと鳴る。
「……仮名でも」
「ええ、構わないよ」
それは逃げ道のようで、
同時に――
残ることを前提にした優しさだった。
青年は、息を吸った。
「……ユリ」
短く、偽りの名。
女はそれを書き留める。
「二人とも、気をつけてね」
「ありがとう」
男は礼を言い、歩き出す。
青年も、遅れて続いた。
⸻
集落を離れてしばらくしてから、青年は立ち止まった。
「……言ってしまいました」
「何をだ」
「名前」
男は振り返る。
「仮名だろ」
「それでも」
青年は、胸を押さえる。
「呼ばれる可能性を」
「……」
「残してしまいました」
男は少し考え、近くの石に腰を下ろす。
「なあ」
「はい」
「名前ってのは」
「生きる証明だと思ってるか」
青年は、即答できなかった。
「……呼ばれるための、印です」
「そうだな」
男は頷く。
「でもな」
「呼ばれるってのは」
「必ずしも、縛られることじゃねえ」
青年は、首を振る。
「僕は」
「呼ばれたら」
「……戻らなければならない気がする」
男は、静かに言った。
「戻らなくていい」
「……」
「呼ばれたって」
「応えない自由もある」
青年の目が、わずかに揺れる。
「それでも」
「名前を書いた」
「存在した証が、残った」
男は、青年を見る。
「残ったな」
「……」
「それで、どうする」
青年は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。
「……消えたい理由が」
「一つ、減ってしまいました」
男は、笑わなかった。
「そうか」
「はい」
「困っています」
「おう」
それだけだった。
二人は、また歩き出す。
掲示板に残った“ユリ”という名前は、
誰かの記憶に強く残ることはないだろう。
それでも青年は知っている。
呼ばれうる名前を持ってしまったという事実が、
自分を世界の外へは逃がさなくなったということを。
その夜、青年は夢を見た。
誰かに呼ばれる夢ではない。
ただ、
自分が振り返ってしまう夢だった。
宿も酒場もない。
代わりに、小さな礼拝堂と掲示板がある。
二人は水と干し肉を求めて立ち寄っただけだった。
長居するつもりはない。
青年は、そう思っていた。
井戸のそばで、年配の女が声をかけてきた。
「旅の方かい」
「そうだ」
男が答える。
「記録だけ、つけさせてもらえる?」
女は掲示板を指した。
「最近は物騒でね。誰が通ったか残す決まりなの」
青年の胸が、わずかに跳ねた。
「……通った、だけでも?」
「ええ。名前と人数だけ」
男は気にも留めずに言った。
「二人だ」
「お名前は?」
女は炭筆を構え、当然のように待つ。
男が名を告げる。
それは軽く、慣れた調子だった。
「……そちらの方は?」
視線が、青年に向く。
青年は、言葉を失った。
名前。
それは、記憶に残るための“取っ手”だ。
掴まれるための形だ。
「……」
「書かなくてもいいけど」
女は穏やかに言う。
「何かあったとき、呼べなくなるよ」
“呼ばれる”。
青年の喉が、ひくりと鳴る。
「……仮名でも」
「ええ、構わないよ」
それは逃げ道のようで、
同時に――
残ることを前提にした優しさだった。
青年は、息を吸った。
「……ユリ」
短く、偽りの名。
女はそれを書き留める。
「二人とも、気をつけてね」
「ありがとう」
男は礼を言い、歩き出す。
青年も、遅れて続いた。
⸻
集落を離れてしばらくしてから、青年は立ち止まった。
「……言ってしまいました」
「何をだ」
「名前」
男は振り返る。
「仮名だろ」
「それでも」
青年は、胸を押さえる。
「呼ばれる可能性を」
「……」
「残してしまいました」
男は少し考え、近くの石に腰を下ろす。
「なあ」
「はい」
「名前ってのは」
「生きる証明だと思ってるか」
青年は、即答できなかった。
「……呼ばれるための、印です」
「そうだな」
男は頷く。
「でもな」
「呼ばれるってのは」
「必ずしも、縛られることじゃねえ」
青年は、首を振る。
「僕は」
「呼ばれたら」
「……戻らなければならない気がする」
男は、静かに言った。
「戻らなくていい」
「……」
「呼ばれたって」
「応えない自由もある」
青年の目が、わずかに揺れる。
「それでも」
「名前を書いた」
「存在した証が、残った」
男は、青年を見る。
「残ったな」
「……」
「それで、どうする」
青年は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。
「……消えたい理由が」
「一つ、減ってしまいました」
男は、笑わなかった。
「そうか」
「はい」
「困っています」
「おう」
それだけだった。
二人は、また歩き出す。
掲示板に残った“ユリ”という名前は、
誰かの記憶に強く残ることはないだろう。
それでも青年は知っている。
呼ばれうる名前を持ってしまったという事実が、
自分を世界の外へは逃がさなくなったということを。
その夜、青年は夢を見た。
誰かに呼ばれる夢ではない。
ただ、
自分が振り返ってしまう夢だった。