7

その土地は、道の途中に“置かれているだけ”の集落だった。

宿も酒場もない。
代わりに、小さな礼拝堂と掲示板がある。

二人は水と干し肉を求めて立ち寄っただけだった。
長居するつもりはない。
青年は、そう思っていた。

井戸のそばで、年配の女が声をかけてきた。

「旅の方かい」
「そうだ」
男が答える。

「記録だけ、つけさせてもらえる?」
女は掲示板を指した。
「最近は物騒でね。誰が通ったか残す決まりなの」

青年の胸が、わずかに跳ねた。

「……通った、だけでも?」
「ええ。名前と人数だけ」

男は気にも留めずに言った。

「二人だ」
「お名前は?」

女は炭筆を構え、当然のように待つ。

男が名を告げる。
それは軽く、慣れた調子だった。

「……そちらの方は?」

視線が、青年に向く。

青年は、言葉を失った。

名前。
それは、記憶に残るための“取っ手”だ。
掴まれるための形だ。

「……」
「書かなくてもいいけど」
女は穏やかに言う。
「何かあったとき、呼べなくなるよ」

“呼ばれる”。

青年の喉が、ひくりと鳴る。

「……仮名でも」
「ええ、構わないよ」

それは逃げ道のようで、
同時に――
残ることを前提にした優しさだった。

青年は、息を吸った。

「……ユリ」

短く、偽りの名。

女はそれを書き留める。

「二人とも、気をつけてね」
「ありがとう」

男は礼を言い、歩き出す。
青年も、遅れて続いた。



集落を離れてしばらくしてから、青年は立ち止まった。

「……言ってしまいました」
「何をだ」
「名前」

男は振り返る。

「仮名だろ」
「それでも」

青年は、胸を押さえる。

「呼ばれる可能性を」
「……」
「残してしまいました」

男は少し考え、近くの石に腰を下ろす。

「なあ」
「はい」
「名前ってのは」
「生きる証明だと思ってるか」

青年は、即答できなかった。

「……呼ばれるための、印です」
「そうだな」

男は頷く。

「でもな」
「呼ばれるってのは」
「必ずしも、縛られることじゃねえ」

青年は、首を振る。

「僕は」
「呼ばれたら」
「……戻らなければならない気がする」

男は、静かに言った。

「戻らなくていい」
「……」
「呼ばれたって」
「応えない自由もある」

青年の目が、わずかに揺れる。

「それでも」
「名前を書いた」
「存在した証が、残った」

男は、青年を見る。

「残ったな」
「……」
「それで、どうする」

青年は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。

「……消えたい理由が」
「一つ、減ってしまいました」

男は、笑わなかった。

「そうか」
「はい」
「困っています」
「おう」

それだけだった。

二人は、また歩き出す。

掲示板に残った“ユリ”という名前は、
誰かの記憶に強く残ることはないだろう。

それでも青年は知っている。

呼ばれうる名前を持ってしまったという事実が、
自分を世界の外へは逃がさなくなったということを。

その夜、青年は夢を見た。
誰かに呼ばれる夢ではない。

ただ、
自分が振り返ってしまう夢だった。