それは、名前も残らない村だった。
二人は昼過ぎに辿り着いた。
畑と数軒の家、井戸がひとつ。
旅人が立ち寄る理由は、ほとんどない。
青年は、ここで足を止める必要はないと思った。
だが男は言った。
「水、補給しとくか」
それだけだった。
井戸のそばで、子どもがひとり、桶を引き上げようとしていた。
腕が細く、縄が重い。
青年は、気づいたときには近づいていた。
「……代わります」
「え?」
言葉は短く、ぎこちない。
桶を引き上げ、水面がきらりと揺れる。
「ありがとう」
子どもは笑った。
それだけだった。
名前も聞かない。
礼以上の会話もない。
青年は、少し戸惑った。
何かをしてしまった、という感覚だけが残る。
村を出るとき、背後から声が飛んできた。
「旅のお兄さん!」
青年が振り返る。
さっきの子どもが、走ってきていた。
「これ」
差し出されたのは、
不格好な布切れに包まれた乾パンだった。
「お礼」
「……いえ」
「持ってって」
青年は、受け取るしかなかった。
⸻
歩き出してしばらくしてから、青年は言った。
「……返すべきでしたか」
「何をだ」
「あの乾パン」
「なんで」
「……残ってしまったから」
男は足を止めなかった。
「残るのが嫌か」
「嫌、というより」
青年は言葉を探す。
「困ります」
布の重さが、掌に残っている。
「助けたなら」
青年は続ける。
「忘れられると思っていました」
「でも」
「覚えられてしまいました」
男は、短く笑った。
「そりゃそうだ」
「……」
「助けたって事実は、消えねえ」
青年は俯く。
「僕は」
「うん」
「誰かの記憶に残る資格が、ないと思っていました」
男は歩きながら言った。
「資格制じゃねえ」
「……」
「生きてりゃ、勝手に残る」
青年は、乾パンを握りしめた。
「……重いです」
「何がだ」
「生きた結果が」
男は、少しだけ振り返る。
「重さが分かるなら」
「おう」
「踏みつぶすような生き方は、しねえだろ」
青年は、その言葉を胸に落とす。
⸻
その夜、焚き火のそばで。
青年は、乾パンを半分に割り、男に差し出した。
「……一緒に、食べますか」
「おう」
二人で黙って噛みしめる。
味はほとんどしない。
けれど青年は、初めて気づいた。
残ってしまった結果は、
消える理由になるだけじゃない。
分け合う理由にもなってしまう。
青年はまだ、死にたがりだ。
それは変わらない。
ただこの日、
彼は初めて――
「何も起こらなかった一日」を、
少しだけ失いたくないと思ってしまった。
二人は昼過ぎに辿り着いた。
畑と数軒の家、井戸がひとつ。
旅人が立ち寄る理由は、ほとんどない。
青年は、ここで足を止める必要はないと思った。
だが男は言った。
「水、補給しとくか」
それだけだった。
井戸のそばで、子どもがひとり、桶を引き上げようとしていた。
腕が細く、縄が重い。
青年は、気づいたときには近づいていた。
「……代わります」
「え?」
言葉は短く、ぎこちない。
桶を引き上げ、水面がきらりと揺れる。
「ありがとう」
子どもは笑った。
それだけだった。
名前も聞かない。
礼以上の会話もない。
青年は、少し戸惑った。
何かをしてしまった、という感覚だけが残る。
村を出るとき、背後から声が飛んできた。
「旅のお兄さん!」
青年が振り返る。
さっきの子どもが、走ってきていた。
「これ」
差し出されたのは、
不格好な布切れに包まれた乾パンだった。
「お礼」
「……いえ」
「持ってって」
青年は、受け取るしかなかった。
⸻
歩き出してしばらくしてから、青年は言った。
「……返すべきでしたか」
「何をだ」
「あの乾パン」
「なんで」
「……残ってしまったから」
男は足を止めなかった。
「残るのが嫌か」
「嫌、というより」
青年は言葉を探す。
「困ります」
布の重さが、掌に残っている。
「助けたなら」
青年は続ける。
「忘れられると思っていました」
「でも」
「覚えられてしまいました」
男は、短く笑った。
「そりゃそうだ」
「……」
「助けたって事実は、消えねえ」
青年は俯く。
「僕は」
「うん」
「誰かの記憶に残る資格が、ないと思っていました」
男は歩きながら言った。
「資格制じゃねえ」
「……」
「生きてりゃ、勝手に残る」
青年は、乾パンを握りしめた。
「……重いです」
「何がだ」
「生きた結果が」
男は、少しだけ振り返る。
「重さが分かるなら」
「おう」
「踏みつぶすような生き方は、しねえだろ」
青年は、その言葉を胸に落とす。
⸻
その夜、焚き火のそばで。
青年は、乾パンを半分に割り、男に差し出した。
「……一緒に、食べますか」
「おう」
二人で黙って噛みしめる。
味はほとんどしない。
けれど青年は、初めて気づいた。
残ってしまった結果は、
消える理由になるだけじゃない。
分け合う理由にもなってしまう。
青年はまだ、死にたがりだ。
それは変わらない。
ただこの日、
彼は初めて――
「何も起こらなかった一日」を、
少しだけ失いたくないと思ってしまった。