6

それは、名前も残らない村だった。

二人は昼過ぎに辿り着いた。
畑と数軒の家、井戸がひとつ。
旅人が立ち寄る理由は、ほとんどない。

青年は、ここで足を止める必要はないと思った。
だが男は言った。

「水、補給しとくか」

それだけだった。

井戸のそばで、子どもがひとり、桶を引き上げようとしていた。
腕が細く、縄が重い。

青年は、気づいたときには近づいていた。

「……代わります」
「え?」

言葉は短く、ぎこちない。
桶を引き上げ、水面がきらりと揺れる。

「ありがとう」
子どもは笑った。

それだけだった。
名前も聞かない。
礼以上の会話もない。

青年は、少し戸惑った。
何かをしてしまった、という感覚だけが残る。

村を出るとき、背後から声が飛んできた。

「旅のお兄さん!」

青年が振り返る。
さっきの子どもが、走ってきていた。

「これ」

差し出されたのは、
不格好な布切れに包まれた乾パンだった。

「お礼」
「……いえ」
「持ってって」

青年は、受け取るしかなかった。



歩き出してしばらくしてから、青年は言った。

「……返すべきでしたか」
「何をだ」
「あの乾パン」
「なんで」
「……残ってしまったから」

男は足を止めなかった。

「残るのが嫌か」
「嫌、というより」
青年は言葉を探す。
「困ります」

布の重さが、掌に残っている。

「助けたなら」
青年は続ける。
「忘れられると思っていました」
「でも」
「覚えられてしまいました」

男は、短く笑った。

「そりゃそうだ」
「……」
「助けたって事実は、消えねえ」

青年は俯く。

「僕は」
「うん」
「誰かの記憶に残る資格が、ないと思っていました」

男は歩きながら言った。

「資格制じゃねえ」
「……」
「生きてりゃ、勝手に残る」

青年は、乾パンを握りしめた。

「……重いです」
「何がだ」
「生きた結果が」

男は、少しだけ振り返る。

「重さが分かるなら」
「おう」
「踏みつぶすような生き方は、しねえだろ」

青年は、その言葉を胸に落とす。



その夜、焚き火のそばで。

青年は、乾パンを半分に割り、男に差し出した。

「……一緒に、食べますか」
「おう」

二人で黙って噛みしめる。
味はほとんどしない。

けれど青年は、初めて気づいた。

残ってしまった結果は、
消える理由になるだけじゃない。
分け合う理由にもなってしまう。

青年はまだ、死にたがりだ。
それは変わらない。

ただこの日、
彼は初めて――
「何も起こらなかった一日」を、
少しだけ失いたくないと思ってしまった。