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第9章「夢の泉」

森の奥へ進むほど、空気が冷たくなっていった。

 木々は次第に細くなり、代わりに白い花が増えていく。

 道など、もうなかった。

 それでもエイルの灯りだけは、迷うことなく進んでいた。

 右へ。

 左へ。

 時には、木の根の下をくぐるように。

 まるで、この森の中にある何かを知っているようだった。

「ねえ、エイル」

 後ろを歩くリナが言った。

「この灯りって……本当にエイルのものなの?」

「どういう意味?」

「だって、エイルが持ってるのに、エイルが知らない場所へ連れていってる」

「……確かに」

 エイルは灯りを見る。

 青い炎は、静かに揺れている。

「俺より、この灯りのほうが俺のことを知ってるのかも」

「それ、ちょっと怖いね」

「うん」

 エイルは少し考えてから、

「でも、俺より方向音痴じゃない」

「そこ?」

 リナが笑った。

 ほんの一瞬。

 黒い霧に覆われた森の中で、二人の間にいつもの空気が戻った。

 けれど――

 笑い声が消えたあと。

 森は、また静かになった。

 あまりにも静かだった。

「……ねえ」

 リナが小さく言う。

「さっきから、花が増えてない?」

「うん」

 エイルも気づいていた。

 白い花。

 見覚えがある。

 夢の中で見た、あの花畑と同じだった。

「セレネがいた場所……」

 エイルが呟く。

 その瞬間。

 前方から、水の音が聞こえた。

 さらさらと。

 小さな川が流れているような音。

 二人は顔を見合わせる。

「行ってみよう」

 エイルが先に進む。

 木々を抜けると――

 そこには、小さな泉があった。

 円形の泉。

 水面には星空が映っている。

 けれど、空を見上げても星はない。

「……綺麗」

 リナが息を呑む。

 泉の周囲には白い花が咲き、その中央に一本の大きな木が立っていた。

 白い樹皮。

 淡い青色の葉。

 そして、その枝には無数の小さな灯りが浮かんでいる。

 エイルは動けなくなった。

「……知ってる」

 胸が痛む。

「この場所……知ってる」

 頭の奥で、何かが開く。

 セレネと二人で、この泉に座っている。

 セレネが水面を覗き込んでいる。

『ねえ、エイル』

『なに?』

『もし、この泉がなくなったらどうする?』

『別の泉を探す』

『そうじゃなくて』

 セレネが笑う。

『もし、思い出すこともできなくなったら?』

 エイルは答えられない。

 そしてセレネは、少し寂しそうに言った。

『そのときは、誰か一人でも覚えていてくれたらいいね』

「……セレネ」

 エイルは泉の前に膝をついた。

 水面に手を伸ばす。

 触れた瞬間――

 泉の星空が崩れた。

 水面に、別の光景が映る。

 村。

 87年前のリーネ村。

 白い木。

 そして、その根元に立つセレネ。

 彼女の前には、黒い霧があった。

 今まで見たものよりも遥かに濃い。

 まるで夜そのものが、地面から湧き上がっているようだった。

『まだ、来ないで』

 セレネが言う。

 誰かに向けて。

 その視線の先に――

 幼いエイルがいた。

「……俺?」

 エイルの声が震える。

 映像の中のセレネは、幼いエイルを抱きしめていた。

『大丈夫』

 彼女は何度もそう言っている。

『大丈夫だから』

 けれど、その顔は。

 泣いていた。

 黒い霧が近づく。

 白い木の灯りが、一つ。

 また一つと消えていく。

 そして――

 セレネが何かを叫んだ。

 映像が途切れる。

「今の……何?」

 リナが尋ねる。

「分からない」

 エイルは立ち上がる。

「でも、まだ続きがある」

 泉の中央。

 水の中に、何かが沈んでいる。

 青い光。

 エイルの灯りと同じ色。

 ゆっくりと水面へ浮かんでくる。

 それは――

 もう一つのランタンだった。

「……灯りは一つではない」

 エイルが呟く。

 写真に書かれた言葉。

 その意味が、初めて目の前に現れた。

 リナが近づく。

「二つ目の灯り……?」

「うん」

 エイルは手を伸ばす。

 けれど。

 触れる直前。

 泉の水面に、文字が浮かんだ。

 ――一つは、失われた記憶を照らす。

 そして。

 ――もう一つは、まだ生まれていない記憶を照らす。

「……まだ生まれていない?」

 リナが首を傾げる。

 エイルも分からない。

 そのとき。

 泉の奥から声がした。

「エイル」

 二人とも凍りつく。

 その声は。

 今まで聞いた偽物とは違った。

 優しくて。

 少し寂しくて。

 何度も夢の中で聞いた声。

「……セレネ?」

 エイルが呟く。

 泉の水面に、一人の少女が映る。

 白い髪。

 青い瞳。

 そして――

 昔と同じ笑顔。

「やっと来たね」

 エイルの目が見開かれる。

「……本物?」

 セレネは答えない。

 ただ、泉の向こうからエイルを見つめている。

「エイル」

「うん」

「お願いがあるの」

「何?」

 セレネは微笑んだ。

 その笑顔は、あの日と同じだった。

 けれど。

 次の言葉だけは――

 あの日とは違っていた。

「私を助けないで。」

 泉の水面が、大きく揺れた。

 同時に。

 森の向こうから、黒い霧が押し寄せてくる。

 泉の周囲に咲いていた白い花が、次々と黒く染まっていく。

 セレネの姿が、少しずつ薄れていく。

「待って!」

 エイルが手を伸ばす。

「セレネ!」

 彼女は最後に一言だけ残した。

「――世界を、助けて」

 そして。

 姿が消えた。

 泉には再び、星空だけが映っていた。

 エイルはしばらく動かなかった。

 やがて。

 手の中の灯りを強く握る。

「……分かった」

 その声には、今までになかった強さがあった。

「セレネを探すだけじゃない」

 背後から、黒い霧の音が近づいてくる。

「この霧が何なのか」

 青い灯りが燃え上がる。

「どうして世界から、いろんなものを奪っているのか」

 そして。

「全部、見つける」

 リナが隣に立つ。

「私も行く」

「……怖くない?」

「怖いよ」

 リナは少し震えながら笑った。

「でも、もう忘れたくないから」

 二人は泉を背にした。

 その瞬間。

 泉の底から――

 三つ目の灯りが、ゆっくりと目を覚ました。