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第10章「三つ目の灯り」

三つ目の灯りが、水底で瞬いた。

 一度。

 二度。

 三度。

 それは、エイルの持つ灯りとも、泉に浮かんでいた灯りとも違っていた。

 青ではない。

 淡い白。

 月明かりのような色だった。

「……まだ、何かある」

 リナが泉を覗き込む。

 けれど、エイルは答えなかった。

 その灯りを見た瞬間。

 胸の奥に、ひどく懐かしい感覚があった。

 ――知っている。

 あれを知っている。

 けれど、思い出せない。

「エイル?」

「……昔、あれを見た気がする」

「セレネと?」

「分からない」

 エイルは目を細めた。

「セレネといた記憶より……もっと前」

 その言葉に、リナが黙る。

 泉の水面が静かに揺れた。

 そして、白い灯りが水底から浮かび上がる。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 水面を抜けた灯りは、空中で止まった。

 すると――

 森の奥に一本の道が現れた。

 白い花が左右に並び、その中心だけが淡く光っている。

「道……?」

「うん」

 エイルが一歩踏み出す。

 すると、白い灯りが先へ進んだ。

 まるで、

 ついてきて

 と言っているように。

「行こう」

 二人はその後を追った。



 森は、さっきまでとはまるで違っていた。

 黒い霧がある。

 けれど、白い灯りが照らす場所だけは霧が薄い。

 そこには古い石碑がいくつも並んでいた。

 名前が刻まれている。

 知らない名前。

 知らない人たち。

 けれど、その中に――

 エイルは足を止めた。

「……これ」

 石碑の一つに手を触れる。

 刻まれていた文字は、

 「セレネ」

 だった。

「セレネの墓……?」

 リナが呟く。

「違う」

 エイルは首を横に振った。

「墓じゃない」

「どうして?」

「……分からないけど」

 エイルは石碑を見つめる。

「これは、誰かを忘れないためのものだと思う」

 石碑の裏側には、小さな文字があった。

 ――記憶されている限り、存在は消えない。

 エイルは、その言葉を指でなぞった。

 すると。

 石碑の中から声がした。

『……それなら、君は誰を覚えている?』

「……!」

 エイルが振り返る。

 誰もいない。

『君が忘れたものは、誰が覚えている?』

 声は続く。

『君自身?』

『それとも――』

 黒い霧が、石碑の隙間から滲み出した。

『誰かに、覚えていてほしい?』

 エイルの表情が曇る。

「……俺は」

 言葉が止まった。

 その問いは、ずっと胸の奥にあったものだった。

 何のために生きているのか。

 何をしても意味がないのではないか。

 自分がいなくなっても、世界は何も変わらないのではないか。

 それなら――

 自分が存在する意味は、どこにある?

「エイル」

 リナの声がした。

「……何?」

「私、エイルのこと覚えてるよ」

 あまりにも普通の言葉だった。

 だからこそ。

 エイルは少し驚いた。

「……それだけ?」

「うん」

 リナは頷く。

「それだけでいいんじゃない?」

「……」

「エイルが私のお母さんの声を取り戻してくれたことも」

「……」

「一緒に村を歩いたことも」

「……」

「さっき、怖いのに私の手を離さなかったことも」

 リナは笑った。

「私は全部覚えてる」

 エイルは俯いた。

 白い髪が顔を隠す。

「……ずるいな」

「何が?」

「そういうこと言われると……」

 エイルは小さく笑った。

「頑張るしかなくなる」

「じゃあ、頑張って」

「うん」

 その瞬間。

 白い灯りが強く輝いた。

 石碑の文字が次々と浮かび上がる。

 セレネ。

 そして――

 エイル。

「……俺の名前もある」

 石碑には、エイルの名が刻まれていた。

 その下には、別の文字があった。

 「忘却から帰りし者」

「どういう意味……?」

 リナが尋ねる。

 エイルは答えられない。

 ただ。

 その文字を見た瞬間。

 頭の奥で、何かが弾けた。



 白い部屋。

 まだ幼いエイル。

 その前に、一人の男性が立っている。

 顔は見えない。

 男性はエイルの肩に手を置いていた。

『君は、いつか忘れる』

 幼いエイルが尋ねる。

『何を?』

『自分が何者なのかを』

『どうして?』

 男性は答えなかった。

 ただ――

 一つの白い灯りをエイルに渡した。

『これを持っていなさい』

『何のため?』

 男性は少しだけ笑った。

『いつか、必要になる』

 場面が崩れる。

 次に見えたのは――

 セレネだった。

 まだ今より幼い。

 彼女は白い灯りを見つめている。

『この灯りは……』

 誰かが答える。

『三つの灯りの一つだ』

『三つ……?』

『記憶の灯り』

 そして。

『夢の灯り』

 最後に――

『命の灯り』

 エイルの意識が揺れる。

「……命の灯り」

 その言葉を口にした瞬間。

 泉で目覚めた三つ目の灯りが、遠くで大きく輝いた。

 リナが息を呑む。

「エイル……」

「うん」

 エイルは立ち上がった。

「三つの灯りは……世界に何かを戻すためにある」

「何を?」

「まだ分からない」

 エイルは白い灯りを見る。

 けれど、一つだけ確かなことがあった。

 この灯りは、セレネを探すためだけのものではない。

 もっと大きな何かを探している。

 ――世界そのものが。

 そのときだった。

 森の奥から、大きな音が響いた。

 ドンッ――!

 木々が揺れる。

 黒い霧が一気に押し寄せてきた。

「……来た」

 エイルが振り返る。

 霧の向こう。

 あの顔のない獣が立っていた。

 けれど――

 今度は一匹ではない。

 その後ろに。

 無数の影がいる。

 人の形。

 獣の形。

 鳥の形。

 そして。

 かつて、この森に生きていたものたちの形。

「……あれは」

 リナの声が震える。

 エイルは灯りを構えた。

「逃げよう」

「戦わないの?」

「今はまだ」

 エイルは白い道を見る。

 その先に、かすかに青い光が見える。

「俺たちが探すべきものは、まだ先にある」

 黒い影が一斉に動き出す。

 エイルとリナも走り出した。

 その背中を追うように。

 黒い霧が森を覆っていく。

 そして――

 誰もいなくなった泉で。

 三つの灯りが、静かに並んだ。

 青。

 青。

 白。

 その中央に。

 ほんの一瞬だけ――

 セレネの姿が浮かんだ。

「……急いで」

 彼女は誰もいない森に向かって呟く。

「霧が、もう目を覚まし始めてる」

 そして彼女の背後で。

 巨大な白い樹が、ゆっくりと――

 黒く染まり始めていた。