11

第11章「白い森の向こう側」


走っても、走っても。

 森は終わらなかった。

 エイルの手の中で、青い灯りが激しく揺れている。

 その先を、白い灯りが進んでいく。

 リナは必死に追いかけていた。

「エイル……!」

「もう少し!」

「それ、何回目!?」

「……たぶん、もう少し!」

「たぶんなんだ……!」

 こんな状況なのに。

 リナが少し笑った。

 エイルも、ほんの少しだけ口元を緩める。

 けれど――

 その笑顔は長く続かなかった。

 前方から、黒い霧が流れてきた。

「止まって!」

 二人は足を止める。

 白い灯りも、その場で静止した。

 森の奥。

 霧の向こうに、巨大な何かがいる。

 木々よりも大きい。

 ゆっくりと動いている。

 エイルは目を凝らした。

「……あれは」

 それは獣ではなかった。

 巨大な樹だった。

 白い樹。

 けれど、その幹の半分は黒く染まっている。

 枝には青い灯りがいくつも浮かんでいる。

 そして、その根元に――

 一人の少女が立っていた。

「セレネ……」

 エイルの声が漏れる。

 今度のセレネは、霧が作った幻ではなかった。

 その姿ははっきりしていた。

 白い髪。

 青い瞳。

 あの日と同じ服。

 けれど。

 彼女はエイルたちを見ても、近づいてこなかった。

「来ちゃったんだね」

 セレネが言った。

「……会いたかった」

 エイルは一歩進む。

「俺は、ずっと――」

「エイル」

 セレネが遮る。

「そこから先には来ないで」

「どうして?」

「お願い」

 エイルは立ち止まった。

 セレネの表情には、恐怖があった。

 エイルに会えた喜びよりも。

 何かを恐れている顔。

「君は、ずっとここにいたの?」

「……そうだよ」

「87年間?」

「うん」

「どうして?」

 セレネは答えなかった。

 代わりに、白い樹を見上げる。

「この樹を守っていたの」

「黒い霧から?」

「そう」

 セレネは少し笑った。

「でも、もう……あまり長くは持たない」

 その瞬間。

 樹の枝から、一つの灯りが落ちた。

 地面に触れる前に消える。

 エイルの胸が痛んだ。

「……何が起きてる?」

「世界が、少しずつ忘れてる」

「世界が?」

「うん」

 セレネは静かに言った。

「最初は、小さなものだった」

「村の古い歌」

「昔の料理」

「誰かの声」

「忘れられた約束」

 ひとつずつ。

 ひとつずつ。

 世界から消えていった。

「でも、それは終わらなかった」

 セレネが黒く染まった幹に触れる。

「忘れられたものが積み重なって……いつしか、霧になった」

 エイルは息を呑んだ。

「じゃあ、黒い霧は……」

「ただの敵じゃない」

 セレネは首を横に振る。

「忘れられたものそのもの。」

 森の奥から、風が吹いた。

 黒い霧が揺れる。

 その中から、たくさんの声が聞こえた。

『私の名前を覚えてる?』

『あの歌、誰が歌ってた?』

『ここには、何があった?』

『どうして私は、ここにいるの?』

 エイルは拳を握った。

「……だから、あいつは人の記憶を奪うの?」

「違う」

 セレネが言う。

「奪っているんじゃない」

「……え?」

「人が忘れたものを、霧が集めているの」

 エイルは言葉を失った。

 ならば。

 村で起きていたことも。

 声を失った人々も。

 消えていった記憶も。

 すべてが、同じものにつながっている。

「じゃあ……どうすれば止められる?」

 セレネはエイルを見る。

 少しだけ悲しそうに。

「覚えてあげるの」

「……それだけ?」

「ううん」

 セレネは首を振った。

「それだけじゃない」

 彼女がエイルの胸元を見る。

「三つの灯りを使うの」

 エイルはペンダントに触れた。

「記憶の灯り」

 セレネが指を一本立てる。

「失われたものを見つける灯り」

「夢の灯り」

 二本目。

「まだ失われていない願いを守る灯り」

 そして。

 三本目の指を立てる。

「命の灯り」

「……命」

「存在しているものを、存在し続けさせる灯り」

 セレネの声が少し震えた。

「でも、三つ目はまだ眠ってる」

 エイルは白い灯りを見る。

「だから……俺たちは三つ目を起こさなきゃいけない?」

「ううん」

 セレネは微笑んだ。

「エイル自身が、起きなきゃいけないの。」

「俺が?」

「そう」

 その瞬間。

 黒い霧の中から、あの声が響いた。

「意味がない」

 エイルの身体が固まる。

「何をしても」

「意味がない」

「覚えても」

「救っても」

「誰かに覚えてもらっても――」

 霧が近づいてくる。

「いつか、全部消える」

 エイルの目が揺れる。

 胸の奥に、ずっと抱えていた恐怖が呼び起こされる。

 何をしても意味がない。

 頑張っても。

 誰かを助けても。

 何かを残しても。

 いつか消えてしまうなら。

 最初から、何もしなくても同じなのではないか。

「エイル」

 セレネが呼ぶ。

「その声を聞いちゃだめ」

「……でも」

「それは、霧の声じゃない」

 セレネが言った。

「あなた自身が、ずっと心の中で聞いていた声だよ」

 エイルは目を見開いた。

「だからこそ――」

 セレネが微笑む。

「あなた自身の言葉で、答えなきゃいけない」

 エイルは黙った。

 しばらくして。

 隣にいたリナが、そっとエイルの手を握った。

「……私、答えは分からないよ」

「リナ?」

「エイルが何のために生きてるのかも」

 リナは少し困ったように笑う。

「世界を救えるのかも分からない」

「……」

「でも」

 手を離さない。

「今日、一緒にここまで来たことは、私は覚えてる」

 エイルの指が動いた。

「それは、意味があると思う」

 静寂。

 そして――

 エイルの胸元で。

 白い灯りが、初めて明滅した。

 一度。

 二度。

 三度。

 黒い霧がざわめく。

「……まだ」

 エイルは顔を上げた。

「俺は、全部を救えるか分からない」

 青い灯りを握る。

「何をしても、いつか消えるのかもしれない」

 白い灯りが強くなる。

「それでも――」

 リナを見る。

 セレネを見る。

 そして、黒い霧を見る。

「今ここにいる誰かを、見なかったことにはしたくない。」

 ――ドクン。

 大地が鳴った。

 白い樹の根元から、巨大な光が溢れ出す。

 黒い霧が一斉に後退した。

 森中の灯りが、一つずつ目を覚ます。

 そして。

 エイルの手の中にあった三つ目の白い灯りが――

 ゆっくりと形を変え始めた。

 小さな光だったものが。

 一本の細い杖へ。

 その先端に、白い花が咲く。

 セレネが目を見開いた。

「……そう」

 その目に、涙が浮かぶ。

「やっと……」

「セレネ?」

 彼女はエイルを見つめる。

「三つ目の灯りが、あなたを選んだんだね」

 その瞬間。

 黒い霧の奥から。

 今までとは比べものにならないほど大きな声が響いた。

「――見つけた」

 セレネの顔から血の気が引く。

「……まずい」

「何が?」

「エイル」

 彼女は初めて、叫んだ。

「走って!」

 森の奥。

 黒い霧の中で。

 巨大な“何か”が、ゆっくりと目を開いた。