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第12章「霧の王」


 ――目が、開いた。

 それは目というよりも、夜空に開いた二つの穴だった。

 黒い霧の奥に浮かぶ、巨大な光。

 赤くもない。

 青くもない。

 ただ、すべての色を失ったような灰色。

 セレネが震えている。

「……来るのが早すぎる」

「何が来るの?」

 リナが尋ねる。

 セレネは答えなかった。

 白い樹の根元へ駆け寄り、両手を幹に当てる。

 すると、樹の中から無数の青い光が溢れ出した。

「走って!」

「セレネは?」

「私はここに残る!」

「また一人で――」

「違う!」

 セレネが叫んだ。

「今回は、あなたを守るためじゃない!」

 エイルが止まる。

 セレネの瞳に、涙が浮かんでいた。

「エイル。今度は――」

 黒い霧が森を揺らす。

「あなたが私を助ける番だから。」

「……!」

 その言葉と同時に。

 白い樹の枝が大きく揺れた。

 一本の枝が折れ、地面に落ちる。

 そこから大量の黒い霧が噴き出した。

「セレネ!」

「行って!」

 エイルは動かなかった。

 けれど、リナが腕を掴んだ。

「エイル!」

「……でも」

「セレネが行けって言ってる!」

 エイルは歯を食いしばる。

 そして――

 走り出した。



 森の中を駆ける。

 白い花が次々と道を作っていく。

 その後ろから、黒い霧が追ってくる。

 木々が倒れる。

 大地が震える。

 けれど、エイルの手にある三つの灯りは消えない。

 青。

 青。

 白。

 それぞれが違う方向を照らしている。

「エイル!」

 リナが叫ぶ。

「こっち!」

 白い灯りが、突然右へ向いた。

 二人も右へ曲がる。

 すると、目の前に崖が現れた。

「行き止まり!」

「……違う」

 エイルが崖を見る。

 その岩肌には、古い扉があった。

 扉には三つの窪み。

 青。

 青。

 白。

「これ……」

 エイルは灯りを見る。

「三つの灯りを置く場所だ」

 リナが息を呑む。

「じゃあ、ここが……?」

「たぶん」

 エイルは一つ目の灯りを窪みに近づける。

 ――カチッ。

 青い光が吸い込まれた。

 二つ目。

 ――カチッ。

 もう一つの青い光が消える。

 最後に、白い灯りを持ち上げる。

 その瞬間。

 背後から声がした。

「エイル」

 セレネの声。

 エイルが振り返る。

「……セレネ?」

 黒い霧の中に、彼女が立っていた。

 白い髪。

 青い瞳。

 穏やかな笑顔。

「戻ってきて」

 エイルの手が止まる。

「あなたがいないと、私は寂しい」

「……」

「ずっと一人だったの」

「……セレネ」

「だから――」

 彼女が手を伸ばす。

「一緒にいよう?」

 リナが息を呑む。

「エイル、違う!」

 エイルは動かない。

 セレネが微笑む。

「もう頑張らなくていいよ」

「……」

「世界を救わなくていい」

「……」

「意味なんて探さなくていい」

 その言葉に。

 エイルの胸が痛んだ。

 ずっと聞いていた言葉。

 誰にも言えなかったこと。

 できることなら。

 何も背負わず。

 誰にも期待されず。

 ただ、誰かの隣にいられたら。

「……そうだね」

 エイルが呟く。

「もう、頑張らなくてもいいのかもしれない」

 リナが驚く。

「エイル……?」

 エイルは俯いた。

 そして。

 小さく笑った。

「でも」

 顔を上げる。

「俺は、頑張りたい」

 セレネの笑顔が消えた。

「……どうして?」

「意味があるからじゃない」

 エイルは白い灯りを見る。

「意味があるかどうかなんて、今の俺には分からない」

 一歩。

 扉へ近づく。

「ただ――」

 もう一歩。

「俺がそうしたいから」

 白い灯りを窪みに置いた。

 ――カチッ。

 三つの灯りが同時に輝く。

 扉が開いた。



 その向こうには。

 地下へ続く階段があった。

 けれど。

 ただの階段ではない。

 壁一面に、絵が描かれている。

 古代の人々。

 白い樹。

 三つの灯り。

 そして――

 巨大な黒い影。

「……これ」

 リナが壁を見る。

「黒い霧?」

「うん」

 エイルは壁画に近づく。

 その隣には、三つの灯りを持つ人物が描かれていた。

 その人物の顔だけが――

 削り取られている。

「誰なんだろう」

「……」

 エイルは答えなかった。

 なぜなら。

 その人物が持っている服の模様に――

 見覚えがあったからだ。

 自分の服。

 自分のペンダント。

 そして。

 右側に垂れた、細い三つ編み。

「……俺?」

 エイルの声が震える。

 リナも絵を見る。

「でも……」

「うん」

「この絵、すごく古いよ」

 エイルは黙り込む。

 そのとき。

 壁画の奥から、低い音が響いた。

 ゴゴゴゴ――。

 階段の先で何かが動いた。

 そして壁に刻まれた文字が、青く光り始める。

 『三つの灯りを持つ者よ』

 次の文字が浮かぶ。

 『おまえは、何を取り戻したい?』

 エイルはしばらく、その問いを見つめていた。

 やがて。

 ゆっくりと口を開く。

「……分からない」

 リナが隣を見る。

「まだ、全部は分からない」

 エイルは胸元のペンダントを握る。

「セレネのことも」

「自分のことも」

「この霧のことも」

 そして――

「俺が、何者なのかも」

 階段の先から。

 かすかな風が吹いてくる。

 その風には、白い花の香りが混じっていた。

「でも」

 エイルは前を向いた。

「一つだけ分かる」

「何?」

「俺は――」

 少しだけ笑う。

「これから見つけるものを、自分で決めたい。」

 その瞬間。

 壁画の中の人物の顔に――

 ほんの一瞬だけ。

 光が戻った。

 エイルと同じ、淡い青緑色の瞳。

 そして。

 どこからともなく。

 セレネではない声が響いた。

「――ようやく、自分で選んだね」

 エイルが振り返る。

「誰?」

 返事はない。

 ただ階段の奥で。

 何かが、ゆっくりと目を覚ました。

 そして遠く。

 地上では。

 白い樹が一本の枝を失い――

 黒い霧が、その根元まで到達していた。