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第13章「選ばれた者」


 階段の奥から、風が吹いていた。

 冷たい風ではない。

 どこか懐かしい。

 春の朝に、遠い森の匂いを感じるような風だった。

 エイルは一段ずつ降りていく。

 隣にはリナ。

 その少し後ろを、三つの灯りがついてくる。

 青。

 青。

 白。

 まるで三人目の旅人のように。

「ねえ、エイル」

「なに?」

「さっきの声……」

「うん」

「誰だったと思う?」

「分からない」

「また?」

「また」

 リナが呆れたように笑う。

「エイルって、分からないこと多すぎない?」

「……否定できない」

 エイルも笑った。

 けれど、その笑顔はすぐに消えた。

 階段の壁に――

 新しい壁画が現れたからだ。



 そこには、一人の少年が描かれていた。

 白い髪。

 淡い青緑色の瞳。

 胸元には、青いペンダント。

 そして手には、三つの灯り。

 エイルと同じ姿だった。

「……また俺?」

 エイルが呟く。

 しかし。

 今度は違った。

 壁画の少年の隣には、二人の人物がいた。

 一人はセレネ。

 もう一人は――

 顔のない男。

 その男の手には、黒い灯りが握られている。

「黒い灯り……?」

 リナが近づく。

「これ、霧と同じ色だ」

 エイルは壁画を見つめる。

 少年が三つの灯りを持つ。

 少女が白い樹を守る。

 そして男が黒い灯りを持つ。

 三人は向かい合っている。

 その下には、古い文字が刻まれていた。

 ――三つの灯りは、世界を守るために生まれた。

 さらに、その下。

 ――けれど、灯りは光だけではない。

 エイルの眉が動く。

「……光だけじゃない?」

 リナが文字を読む。

 ――光が生まれる場所には、必ず影が生まれる。

 エイルはしばらく黙っていた。

 そして。

「じゃあ……」

 黒い灯りを見る。

「黒い霧も、最初から悪いものだったわけじゃない?」

 答えはなかった。

 代わりに。

 壁画の一部が、ゆっくりと動いた。

 白い樹の絵が開き――

 その奥に、もう一つの部屋が現れた。



 部屋の中央には、椅子が一つ置かれていた。

 その椅子に。

 一人の老人が座っていた。

「……人?」

 リナが身構える。

 老人はゆっくりと顔を上げた。

 長い白髪。

 深い皺。

 けれど、その瞳だけは不思議なほど澄んでいる。

「ようやく来たか」

 老人はエイルを見る。

「三つの灯りを持つ者よ」

 エイルは警戒しながら尋ねる。

「あなたは誰?」

「昔の番人だ」

「何を守っているの?」

「答えを」

「答え?」

 老人は頷いた。

「お前が、自分で選ぶための答えだ」

 リナが首を傾げる。

「よく分からない……」

「それでいい」

 老人は笑った。

「分からないものを、すぐに分かったことにする必要はない」

 エイルは少し驚いた。

 その言葉が妙に心に残った。

「セレネを知ってる?」

 老人の表情が変わる。

「……ああ」

「彼女はどこ?」

「白い樹の中だ」

「生きてる?」

 老人はしばらく黙ってから答えた。

「その問いは、少し難しい」

「どういう意味?」

「肉体としてなら――」

 老人は目を伏せる。

「もう、長い間ここにはいない」

 エイルの胸が締めつけられた。

「じゃあ……」

「だが」

 老人が続ける。

「セレネという存在そのものは、まだ消えていない」

「……どういうこと?」

「お前が覚えているからだ」

 エイルは言葉を失った。

 老人は続ける。

「記憶とは、過去を保存するだけのものではない」

「誰かが誰かを覚えている限り、その人が残したものもまた、未来へ進む」

 エイルはペンダントを見る。

「だからセレネは……」

「完全には消えていない」

 老人は静かに答えた。

「だが、それも時間の問題だ」

 その瞬間。

 地面が大きく揺れた。

 ゴゴゴゴゴ――!

 天井から砂埃が落ちる。

「……来たな」

 老人が立ち上がる。

「何が?」

「霧だ」

 遠くから。

 低い唸り声が響いてくる。

 階段の向こうから、黒い霧が流れ込んできた。

 さっきまでとは違う。

 意思を持っている。

 狙っている。

 まっすぐエイルへ向かっている。

「どうして俺を狙う?」

 老人は答えた。

「お前が、最後の灯りだからだ」

「……俺が?」

「違う」

 老人が首を横に振る。

「正確には――」

 エイルの胸元を指差す。

「お前自身が、灯りだからだ。」

 エイルの瞳が大きくなる。

「……俺が?」

「三つの灯りは外にあるものではない」

 老人が言う。

「記憶も」

「夢も」

「命も」

「すべて、お前の中にある」

 黒い霧が迫ってくる。

 リナが叫ぶ。

「エイル!」

 エイルは一歩下がった。

 怖かった。

 初めてではない。

 けれど今度の恐怖は違った。

 自分が何者なのか。

 その答えが。

 目の前にある気がした。

 そして同時に。

 その答えを知ることが、怖かった。

「俺は……」

 老人を見る。

「何者なの?」

 老人は静かに答えた。

「それを決めるのは――」

 三つの灯りが、一斉に輝く。

「お前自身だ」

 黒い霧が部屋を満たす。

 リナの姿が消える。

「リナ!」

「エイル!」

 声だけが聞こえる。

 老人も消えた。

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 そして。

 エイルの目の前に、一つの扉が現れた。

 扉には文字が刻まれている。

 ――過去。

 左には。

 ――未来。

 右には。

 そして中央には。

 ――今。

 エイルは三つの扉を見つめた。

 黒い霧が背後から迫る。

 過去を選べば。

 セレネのことを、もっと知ることができる。

 未来を選べば。

 この世界がどうなるのかを見ることができる。

 けれど。

 中央の扉には何も書かれていない。

 エイルはしばらく考えた。

 そして――

 中央の扉に手をかける。

「……今を選ぶ」

 扉が開いた。

 その向こうから。

 懐かしい声が聞こえた。

「――おかえり、エイル」

 セレネだった。

 けれど、その声の奥には。

 今まで聞いたことのない――

 もう一人の声が重なっていた。