第14章「二つの声」
――おかえり、エイル。
懐かしい声だった。
何度も夢の中で聞いた声。
忘れていたはずなのに、心だけは覚えていた声。
けれど。
その奥に、もう一つの声が重なっている。
低く、静かな声。
セレネとはまったく違う声だった。
『……ようやく、ここまで来たか』
エイルは扉の前で立ち尽くした。
「誰?」
返事はない。
ただ、扉の向こうに白い光が広がっている。
エイルは一歩踏み込んだ。
⸻
そこは森ではなかった。
空もない。
地面もない。
ただ、無数の光が浮かんでいた。
一つ一つの光の中に、小さな景色が見える。
誰かが笑っている。
誰かが泣いている。
誰かが歌っている。
誰かが誰かの名前を呼んでいる。
「……これ、全部……」
リナの声が聞こえた。
振り返る。
そこにリナがいた。
「よかった……!」
リナが駆け寄ってくる。
「急にエイルが消えたから、びっくりしたよ」
「俺も……」
エイルは周囲を見渡した。
「ここは何だろう」
「分からない」
「だよね」
「でも――」
リナが一つの光を指差す。
「見て」
光の中に、村の風景が映っていた。
小さな女の子が走っている。
母親が笑っている。
誰かがパンを焼いている。
老人が歌っている。
どれも、何気ない日常だった。
「……リーネ村」
エイルが呟く。
「でも、今の村じゃない」
「うん」
リナが頷く。
「たぶん、昔の村」
光がゆっくり消える。
別の光が灯る。
そこにはセレネがいた。
白い樹の下。
一人で座っている。
『今日も、エイルは来なかったな』
セレネが笑う。
『……仕方ないか』
エイルの胸が痛む。
「……これ、セレネの記憶?」
『でも、きっと来るよね』
セレネは空を見上げた。
『あの子は、約束を忘れないから』
エイルは息を止める。
「……俺は」
何かを言おうとした。
けれど。
別の光が目に入った。
そこには――
自分がいた。
今よりも幼い。
セレネと一緒に笑っている。
花を摘んで。
泉で遊んで。
くだらないことで喧嘩をして。
そして。
二人で同じ木の下で眠っている。
エイルはその光景を見つめた。
「……こんな時間があったんだ」
「うん」
リナが答える。
「ちゃんと、あったんだよ」
エイルは微笑んだ。
少しだけ。
寂しそうに。
「忘れてた」
「でも、今は思い出してる」
「……うん」
そのとき。
部屋の奥から声がした。
『それが、記憶だ』
二人が振り返る。
そこには――
一人の少年が立っていた。
エイルと同じくらいの年齢に見える。
黒い髪。
灰色の瞳。
黒い服。
そして胸元には――
黒い石がついたペンダント。
エイルは警戒する。
「……誰?」
少年は答えなかった。
ただ、エイルをじっと見つめている。
『君は、まだ覚えているんだね』
「……何を?」
『自分が忘れたことを』
エイルは眉をひそめる。
「どういう意味?」
少年が近づく。
『人は、忘れたことすら忘れてしまう』
一歩。
『でも君は違う』
もう一歩。
『君は、忘却の中に残った』
「……俺が?」
『そう』
少年は微笑んだ。
『だから霧は、君を嫌っている』
エイルは拳を握る。
「霧は何なんだ?」
『さっき、聞いたよね』
少年が答える。
『忘れられたものそのものだって』
「うん」
『それは正しい』
「じゃあ、どうして俺を狙う?」
少年は少し考えた。
『君が、忘れられたものをもう一度世界に戻そうとしているから』
「……」
『霧にとって、それは死ぬことと同じなんだ』
エイルは言葉を失った。
つまり。
黒い霧は、何かを憎んでいるのではない。
ただ――
忘れられたまま存在し続けようとしている。
「……だったら」
エイルは言う。
「霧を消すんじゃなくて、戻してあげればいいんじゃない?」
少年の表情が変わった。
『……なるほど』
「違う?」
『いや』
少年は初めて笑った。
『それが、この世界がずっと探していた答えかもしれない』
その瞬間。
周囲の光が一斉に輝いた。
無数の記憶が、エイルの周囲を回り始める。
村。
森。
知らない街。
知らない人。
知らない時代。
そして――
見覚えのない巨大な白い塔。
「……こんな場所、知らない」
『当然だよ』
少年が言う。
『君が生まれるより、ずっと前の場所だから』
「……!」
エイルが振り返る。
「俺が、生まれるより前?」
『そう』
少年は白い塔を指差す。
『君は、あの場所から来た』
「……俺はリーネ村で生まれたんじゃないの?」
『違う』
エイルの呼吸が止まる。
『君は――』
その瞬間。
大きな音が響いた。
ドン――!
光の世界そのものが揺れる。
少年の顔から笑みが消えた。
『もう来た』
「何が?」
『霧だ』
遠く。
白い光の世界に、黒い亀裂が入った。
そこから黒い霧が流れ込んでくる。
無数の記憶が逃げるように散っていく。
「リナ!」
「うん!」
二人は身構える。
けれど少年は、エイルを見た。
『ここでは戦わないで』
「どうして?」
『この場所で霧を傷つければ――』
少年が黒い亀裂を見る。
『この世界に残っている記憶まで、一緒に壊れる』
エイルは息を呑んだ。
「じゃあ、どうすれば……」
『一つだけ方法がある』
少年が手を差し出す。
その手のひらに、黒い小さな光が浮かんだ。
『霧の中へ行くんだ』
「……霧の中?」
『そう』
少年は言った。
『そこで、霧が何を忘れているのかを見つける』
「霧自身が……何かを忘れてる?」
『うん』
少年の瞳が、悲しそうに揺れる。
『霧もまた――』
一瞬だけ。
少年の顔がセレネに見えた。
エイルは目を見開く。
「……セレネ?」
少年は答えない。
ただ、静かに笑った。
『気づいたんだね』
「あなたは……」
『今は、まだ』
その姿が光の中へ溶けていく。
『名前を思い出さなくていい』
「待って!」
エイルが手を伸ばす。
けれど。
少年は最後に一言だけ残した。
『君が忘れている最後の記憶を見つけたとき――』
世界が白く染まる。
『君は、なぜセレネが君の記憶を消したのかを知る。』
⸻
目を開ける。
エイルは森の中に立っていた。
隣にはリナ。
目の前には、黒い霧。
そして。
その向こうに――
白い樹が見える。
セレネの姿はない。
「……戻ってきた」
リナが呟く。
エイルは自分の手を見る。
三つの灯りが、そこにあった。
けれど。
今までとは違う。
三つ目の白い灯りの中心に――
小さな黒い点が浮かんでいる。
「……エイル?」
「大丈夫」
エイルは灯りを見つめた。
「たぶん、これでいい」
黒い霧が迫る。
エイルは一歩前へ出た。
「行こう」
「どこへ?」
「霧の中」
リナが目を見開く。
「……本気?」
「うん」
エイルは微笑む。
「だって――」
三つの灯りが、静かに輝く。
「霧にも、忘れてしまったものがあるんだから」
二人は。
黒い霧の中へ足を踏み入れた。
その瞬間。
世界から、音が消えた。
そしてエイルは――
自分が生まれた日の記憶を見た。
――おかえり、エイル。
懐かしい声だった。
何度も夢の中で聞いた声。
忘れていたはずなのに、心だけは覚えていた声。
けれど。
その奥に、もう一つの声が重なっている。
低く、静かな声。
セレネとはまったく違う声だった。
『……ようやく、ここまで来たか』
エイルは扉の前で立ち尽くした。
「誰?」
返事はない。
ただ、扉の向こうに白い光が広がっている。
エイルは一歩踏み込んだ。
⸻
そこは森ではなかった。
空もない。
地面もない。
ただ、無数の光が浮かんでいた。
一つ一つの光の中に、小さな景色が見える。
誰かが笑っている。
誰かが泣いている。
誰かが歌っている。
誰かが誰かの名前を呼んでいる。
「……これ、全部……」
リナの声が聞こえた。
振り返る。
そこにリナがいた。
「よかった……!」
リナが駆け寄ってくる。
「急にエイルが消えたから、びっくりしたよ」
「俺も……」
エイルは周囲を見渡した。
「ここは何だろう」
「分からない」
「だよね」
「でも――」
リナが一つの光を指差す。
「見て」
光の中に、村の風景が映っていた。
小さな女の子が走っている。
母親が笑っている。
誰かがパンを焼いている。
老人が歌っている。
どれも、何気ない日常だった。
「……リーネ村」
エイルが呟く。
「でも、今の村じゃない」
「うん」
リナが頷く。
「たぶん、昔の村」
光がゆっくり消える。
別の光が灯る。
そこにはセレネがいた。
白い樹の下。
一人で座っている。
『今日も、エイルは来なかったな』
セレネが笑う。
『……仕方ないか』
エイルの胸が痛む。
「……これ、セレネの記憶?」
『でも、きっと来るよね』
セレネは空を見上げた。
『あの子は、約束を忘れないから』
エイルは息を止める。
「……俺は」
何かを言おうとした。
けれど。
別の光が目に入った。
そこには――
自分がいた。
今よりも幼い。
セレネと一緒に笑っている。
花を摘んで。
泉で遊んで。
くだらないことで喧嘩をして。
そして。
二人で同じ木の下で眠っている。
エイルはその光景を見つめた。
「……こんな時間があったんだ」
「うん」
リナが答える。
「ちゃんと、あったんだよ」
エイルは微笑んだ。
少しだけ。
寂しそうに。
「忘れてた」
「でも、今は思い出してる」
「……うん」
そのとき。
部屋の奥から声がした。
『それが、記憶だ』
二人が振り返る。
そこには――
一人の少年が立っていた。
エイルと同じくらいの年齢に見える。
黒い髪。
灰色の瞳。
黒い服。
そして胸元には――
黒い石がついたペンダント。
エイルは警戒する。
「……誰?」
少年は答えなかった。
ただ、エイルをじっと見つめている。
『君は、まだ覚えているんだね』
「……何を?」
『自分が忘れたことを』
エイルは眉をひそめる。
「どういう意味?」
少年が近づく。
『人は、忘れたことすら忘れてしまう』
一歩。
『でも君は違う』
もう一歩。
『君は、忘却の中に残った』
「……俺が?」
『そう』
少年は微笑んだ。
『だから霧は、君を嫌っている』
エイルは拳を握る。
「霧は何なんだ?」
『さっき、聞いたよね』
少年が答える。
『忘れられたものそのものだって』
「うん」
『それは正しい』
「じゃあ、どうして俺を狙う?」
少年は少し考えた。
『君が、忘れられたものをもう一度世界に戻そうとしているから』
「……」
『霧にとって、それは死ぬことと同じなんだ』
エイルは言葉を失った。
つまり。
黒い霧は、何かを憎んでいるのではない。
ただ――
忘れられたまま存在し続けようとしている。
「……だったら」
エイルは言う。
「霧を消すんじゃなくて、戻してあげればいいんじゃない?」
少年の表情が変わった。
『……なるほど』
「違う?」
『いや』
少年は初めて笑った。
『それが、この世界がずっと探していた答えかもしれない』
その瞬間。
周囲の光が一斉に輝いた。
無数の記憶が、エイルの周囲を回り始める。
村。
森。
知らない街。
知らない人。
知らない時代。
そして――
見覚えのない巨大な白い塔。
「……こんな場所、知らない」
『当然だよ』
少年が言う。
『君が生まれるより、ずっと前の場所だから』
「……!」
エイルが振り返る。
「俺が、生まれるより前?」
『そう』
少年は白い塔を指差す。
『君は、あの場所から来た』
「……俺はリーネ村で生まれたんじゃないの?」
『違う』
エイルの呼吸が止まる。
『君は――』
その瞬間。
大きな音が響いた。
ドン――!
光の世界そのものが揺れる。
少年の顔から笑みが消えた。
『もう来た』
「何が?」
『霧だ』
遠く。
白い光の世界に、黒い亀裂が入った。
そこから黒い霧が流れ込んでくる。
無数の記憶が逃げるように散っていく。
「リナ!」
「うん!」
二人は身構える。
けれど少年は、エイルを見た。
『ここでは戦わないで』
「どうして?」
『この場所で霧を傷つければ――』
少年が黒い亀裂を見る。
『この世界に残っている記憶まで、一緒に壊れる』
エイルは息を呑んだ。
「じゃあ、どうすれば……」
『一つだけ方法がある』
少年が手を差し出す。
その手のひらに、黒い小さな光が浮かんだ。
『霧の中へ行くんだ』
「……霧の中?」
『そう』
少年は言った。
『そこで、霧が何を忘れているのかを見つける』
「霧自身が……何かを忘れてる?」
『うん』
少年の瞳が、悲しそうに揺れる。
『霧もまた――』
一瞬だけ。
少年の顔がセレネに見えた。
エイルは目を見開く。
「……セレネ?」
少年は答えない。
ただ、静かに笑った。
『気づいたんだね』
「あなたは……」
『今は、まだ』
その姿が光の中へ溶けていく。
『名前を思い出さなくていい』
「待って!」
エイルが手を伸ばす。
けれど。
少年は最後に一言だけ残した。
『君が忘れている最後の記憶を見つけたとき――』
世界が白く染まる。
『君は、なぜセレネが君の記憶を消したのかを知る。』
⸻
目を開ける。
エイルは森の中に立っていた。
隣にはリナ。
目の前には、黒い霧。
そして。
その向こうに――
白い樹が見える。
セレネの姿はない。
「……戻ってきた」
リナが呟く。
エイルは自分の手を見る。
三つの灯りが、そこにあった。
けれど。
今までとは違う。
三つ目の白い灯りの中心に――
小さな黒い点が浮かんでいる。
「……エイル?」
「大丈夫」
エイルは灯りを見つめた。
「たぶん、これでいい」
黒い霧が迫る。
エイルは一歩前へ出た。
「行こう」
「どこへ?」
「霧の中」
リナが目を見開く。
「……本気?」
「うん」
エイルは微笑む。
「だって――」
三つの灯りが、静かに輝く。
「霧にも、忘れてしまったものがあるんだから」
二人は。
黒い霧の中へ足を踏み入れた。
その瞬間。
世界から、音が消えた。
そしてエイルは――
自分が生まれた日の記憶を見た。