第15章「生まれた日の記憶」
音がなかった。
風も。
鳥の声も。
リナの足音さえも。
何もない。
ただ、黒い霧だけが世界を満たしている。
「……リナ?」
エイルが手を伸ばす。
「ここにいるよ」
返事があった。
声は聞こえる。
けれど、姿が見えない。
「手、つないでて」
「うん」
温かい手が触れた。
エイルはその手を強く握った。
そして。
霧の向こうに、一つの光が見えた。
小さな光。
それは、ゆっくりと近づいてくる。
光の中に――
一人の女性がいた。
長い髪。
疲れた顔。
けれど、その腕には笑顔があった。
赤ん坊。
小さな、小さなエイル。
「……俺?」
エイルの声が震える。
女性が赤ん坊を抱きしめる。
『この子は……エイル』
その声を聞いた瞬間。
胸の奥が痛くなった。
知らないはずなのに。
ずっと探していた声だった。
『エイル』
女性は何度も名前を呼ぶ。
『あなたには、あなたの人生を生きてほしい』
その頬に涙が流れる。
『私のためじゃなくていい』
『誰かのためじゃなくていい』
『ただ……あなた自身のために』
エイルは息を止めた。
「この人……母さん?」
リナは答えない。
ただ、隣で静かに手を握っている。
光景が変わる。
女性が赤ん坊のエイルを抱いて、森の中を歩いている。
その後ろには――
あの白い樹があった。
けれど。
まだ黒く染まっていない。
枝には無数の灯りが浮かんでいる。
その木の前に、セレネがいた。
今よりずっと幼い。
『この子が……?』
セレネが尋ねる。
『うん』
エイルの母が答える。
『この子をお願い』
『どうして?』
『私には、この子を守れないから』
セレネが赤ん坊を見る。
そして。
小さな指に触れる。
『……かわいい』
その瞬間。
赤ん坊のエイルが、セレネの指を握った。
セレネが笑う。
『ふふ』
エイルはその光景を見つめていた。
「……俺は、セレネと会ったのが初めてじゃなかったんだ」
リナが頷く。
「たぶん」
光景が続く。
エイルの母が、何かをセレネに渡している。
小さな青い石。
それは――
エイルのペンダントと同じ形だった。
『この子の中には、三つ目の灯りがある』
セレネの表情が変わる。
『……本当に?』
『ええ』
『でも、まだ眠ってる』
『だからお願い』
母親はセレネを見る。
『この子が、自分で生きることを選べるまで』
セレネは赤ん坊のエイルを見る。
しばらくして。
頷いた。
『分かった』
そこで。
記憶が一度、暗くなった。
⸻
次に見えたのは。
白い樹の下。
成長したエイル。
そしてセレネ。
二人は笑っている。
いつか見た光景だった。
花を摘み。
泉で遊び。
くだらないことで喧嘩をして。
何度も仲直りした。
エイルはその光景を見ながら笑った。
「……幸せだったんだな」
「うん」
リナが答える。
「すごく」
けれど。
記憶はそこで終わらなかった。
黒い霧が現れる。
最初は小さかった。
白い樹の根元に、ほんの少し。
セレネがそれを見つめている。
『また増えてる……』
エイルが尋ねる。
『何が?』
『霧』
『大丈夫だよ』
セレネは笑う。
『私が守るから』
しかし。
霧は少しずつ増えていった。
村の人々が、昔のことを忘れ始める。
歌を。
名前を。
約束を。
そして――
ある夜。
セレネが一人で泉へ向かった。
そこには、黒い霧が集まっていた。
『どうして……』
セレネが呟く。
『どうして、こんなに苦しいの?』
霧から声がする。
『忘れられたから』
『……誰に?』
『世界に』
セレネは黙った。
霧が続ける。
『私たちは、誰にも覚えてもらえなかった』
『だから――』
黒い霧が膨らむ。
『全部、忘れさせてあげる』
「……違う」
エイルが呟いた。
「それじゃ、誰も救われない」
すると。
記憶の中のセレネが振り返った。
まるで、今のエイルを見ているように。
『そうだね』
セレネが言う。
『だから私は、エイルを忘れさせる』
「……!」
エイルは凍りついた。
『この子だけは』
セレネが眠っているエイルを見る。
『この霧の中で、誰かを忘れることを覚えないでほしい』
『誰かを失う痛みを知らなくていいとは思わない』
『でも――』
セレネの目から涙が落ちる。
『失ったものだけを見て、生きてほしくない』
エイルの胸が締めつけられる。
『だから、記憶を消す』
『私のことも』
『この村のことも』
『この日のことも』
セレネはエイルの額に手を当てる。
『全部、忘れて』
そして。
その瞬間――
エイルは見た。
セレネの背後に。
もう一人、誰かが立っている。
あの黒い灯りを持った人物。
顔は見えない。
けれど。
その人物はセレネに何かを渡していた。
黒い石。
セレネがそれを受け取る。
『これを使えば、彼を守れる』
誰かが言った。
『でも代わりに――』
セレネが答える。
『分かってる』
『あなた自身の記憶も失う』
「……え?」
エイルが声を漏らす。
リナも息を呑む。
『エイルの記憶を消すだけじゃない』
謎の人物が言う。
『あなた自身も、エイルとの記憶を失う』
セレネは目を閉じた。
『……それでもいい』
「待って」
エイルが叫ぶ。
「それじゃ……」
セレネは微笑む。
『この子が生きてくれるなら』
『私は、忘れてもいい』
光が溢れる。
セレネの記憶が。
エイルの記憶が。
そして村の記憶が。
すべて白い光に包まれていく。
⸻
「……セレネ」
エイルは膝をついた。
初めて知った。
彼女は自分を忘れさせた。
自分のために。
でも。
それだけではなかった。
セレネ自身も、エイルを忘れることを選んでいた。
「だから……」
エイルの声が震える。
「俺を見ても、最初は思い出せなかったんだ」
リナが隣にしゃがむ。
「でも」
「……?」
「最後には、思い出したんじゃない?」
エイルは顔を上げる。
その瞬間。
黒い霧の奥に、一つの光が灯った。
そこにセレネがいた。
今度は記憶ではない。
幻でもない。
けれど。
彼女は遠い場所にいる。
『エイル』
「セレネ!」
『聞いて』
声が少しずつ薄れていく。
『私があなたを忘れたのは、あなたを捨てたかったからじゃない』
「……うん」
『あなたに、私がいなくても歩いてほしかった』
「……うん」
『でも――』
セレネが微笑む。
『ちゃんと、ここまで来てくれたね』
エイルの目から涙が落ちた。
「……遅くなった」
『ううん』
「もっと早く会いたかった」
『それでもいいよ』
「……会いたかった」
『私も』
その言葉とともに。
セレネの姿が消え始める。
「待って!」
『エイル』
「まだ、話したいことが――」
『大丈夫』
最後に。
セレネは、あの日と同じ言葉を言った。
『あなたは、忘れないから』
光が消えた。
静寂。
エイルはしばらく動けなかった。
やがて。
黒い霧の中に、一つの小さな光が残っていることに気づく。
それは――
黒い灯りだった。
けれど。
その中心には、小さな青い光があった。
エイルが手を伸ばす。
触れた瞬間。
声が聞こえた。
『これで、最後の記憶は戻った』
あの少年の声。
「……あなたは誰?」
『まだ、名前は必要ない』
「どうして?」
『君が次に会うとき――』
黒い灯りが、エイルの手の中で揺れる。
『君は、私のことを知っているから』
そして。
霧の向こうから――
巨大な何かが、こちらへ近づいてきた。
今度は。
隠れることもなく。
その姿を現していく。
黒い霧の王。
その身体には無数の顔が浮かんでいた。
泣いている顔。
笑っている顔。
怒っている顔。
そして――
その中に一つだけ。
エイルが知っている顔があった。
「……母さん?」
黒い霧の王が、ゆっくりと口を開く。
「――エイル」
その声は。
幼い頃に聞いた、母親の声だった。
音がなかった。
風も。
鳥の声も。
リナの足音さえも。
何もない。
ただ、黒い霧だけが世界を満たしている。
「……リナ?」
エイルが手を伸ばす。
「ここにいるよ」
返事があった。
声は聞こえる。
けれど、姿が見えない。
「手、つないでて」
「うん」
温かい手が触れた。
エイルはその手を強く握った。
そして。
霧の向こうに、一つの光が見えた。
小さな光。
それは、ゆっくりと近づいてくる。
光の中に――
一人の女性がいた。
長い髪。
疲れた顔。
けれど、その腕には笑顔があった。
赤ん坊。
小さな、小さなエイル。
「……俺?」
エイルの声が震える。
女性が赤ん坊を抱きしめる。
『この子は……エイル』
その声を聞いた瞬間。
胸の奥が痛くなった。
知らないはずなのに。
ずっと探していた声だった。
『エイル』
女性は何度も名前を呼ぶ。
『あなたには、あなたの人生を生きてほしい』
その頬に涙が流れる。
『私のためじゃなくていい』
『誰かのためじゃなくていい』
『ただ……あなた自身のために』
エイルは息を止めた。
「この人……母さん?」
リナは答えない。
ただ、隣で静かに手を握っている。
光景が変わる。
女性が赤ん坊のエイルを抱いて、森の中を歩いている。
その後ろには――
あの白い樹があった。
けれど。
まだ黒く染まっていない。
枝には無数の灯りが浮かんでいる。
その木の前に、セレネがいた。
今よりずっと幼い。
『この子が……?』
セレネが尋ねる。
『うん』
エイルの母が答える。
『この子をお願い』
『どうして?』
『私には、この子を守れないから』
セレネが赤ん坊を見る。
そして。
小さな指に触れる。
『……かわいい』
その瞬間。
赤ん坊のエイルが、セレネの指を握った。
セレネが笑う。
『ふふ』
エイルはその光景を見つめていた。
「……俺は、セレネと会ったのが初めてじゃなかったんだ」
リナが頷く。
「たぶん」
光景が続く。
エイルの母が、何かをセレネに渡している。
小さな青い石。
それは――
エイルのペンダントと同じ形だった。
『この子の中には、三つ目の灯りがある』
セレネの表情が変わる。
『……本当に?』
『ええ』
『でも、まだ眠ってる』
『だからお願い』
母親はセレネを見る。
『この子が、自分で生きることを選べるまで』
セレネは赤ん坊のエイルを見る。
しばらくして。
頷いた。
『分かった』
そこで。
記憶が一度、暗くなった。
⸻
次に見えたのは。
白い樹の下。
成長したエイル。
そしてセレネ。
二人は笑っている。
いつか見た光景だった。
花を摘み。
泉で遊び。
くだらないことで喧嘩をして。
何度も仲直りした。
エイルはその光景を見ながら笑った。
「……幸せだったんだな」
「うん」
リナが答える。
「すごく」
けれど。
記憶はそこで終わらなかった。
黒い霧が現れる。
最初は小さかった。
白い樹の根元に、ほんの少し。
セレネがそれを見つめている。
『また増えてる……』
エイルが尋ねる。
『何が?』
『霧』
『大丈夫だよ』
セレネは笑う。
『私が守るから』
しかし。
霧は少しずつ増えていった。
村の人々が、昔のことを忘れ始める。
歌を。
名前を。
約束を。
そして――
ある夜。
セレネが一人で泉へ向かった。
そこには、黒い霧が集まっていた。
『どうして……』
セレネが呟く。
『どうして、こんなに苦しいの?』
霧から声がする。
『忘れられたから』
『……誰に?』
『世界に』
セレネは黙った。
霧が続ける。
『私たちは、誰にも覚えてもらえなかった』
『だから――』
黒い霧が膨らむ。
『全部、忘れさせてあげる』
「……違う」
エイルが呟いた。
「それじゃ、誰も救われない」
すると。
記憶の中のセレネが振り返った。
まるで、今のエイルを見ているように。
『そうだね』
セレネが言う。
『だから私は、エイルを忘れさせる』
「……!」
エイルは凍りついた。
『この子だけは』
セレネが眠っているエイルを見る。
『この霧の中で、誰かを忘れることを覚えないでほしい』
『誰かを失う痛みを知らなくていいとは思わない』
『でも――』
セレネの目から涙が落ちる。
『失ったものだけを見て、生きてほしくない』
エイルの胸が締めつけられる。
『だから、記憶を消す』
『私のことも』
『この村のことも』
『この日のことも』
セレネはエイルの額に手を当てる。
『全部、忘れて』
そして。
その瞬間――
エイルは見た。
セレネの背後に。
もう一人、誰かが立っている。
あの黒い灯りを持った人物。
顔は見えない。
けれど。
その人物はセレネに何かを渡していた。
黒い石。
セレネがそれを受け取る。
『これを使えば、彼を守れる』
誰かが言った。
『でも代わりに――』
セレネが答える。
『分かってる』
『あなた自身の記憶も失う』
「……え?」
エイルが声を漏らす。
リナも息を呑む。
『エイルの記憶を消すだけじゃない』
謎の人物が言う。
『あなた自身も、エイルとの記憶を失う』
セレネは目を閉じた。
『……それでもいい』
「待って」
エイルが叫ぶ。
「それじゃ……」
セレネは微笑む。
『この子が生きてくれるなら』
『私は、忘れてもいい』
光が溢れる。
セレネの記憶が。
エイルの記憶が。
そして村の記憶が。
すべて白い光に包まれていく。
⸻
「……セレネ」
エイルは膝をついた。
初めて知った。
彼女は自分を忘れさせた。
自分のために。
でも。
それだけではなかった。
セレネ自身も、エイルを忘れることを選んでいた。
「だから……」
エイルの声が震える。
「俺を見ても、最初は思い出せなかったんだ」
リナが隣にしゃがむ。
「でも」
「……?」
「最後には、思い出したんじゃない?」
エイルは顔を上げる。
その瞬間。
黒い霧の奥に、一つの光が灯った。
そこにセレネがいた。
今度は記憶ではない。
幻でもない。
けれど。
彼女は遠い場所にいる。
『エイル』
「セレネ!」
『聞いて』
声が少しずつ薄れていく。
『私があなたを忘れたのは、あなたを捨てたかったからじゃない』
「……うん」
『あなたに、私がいなくても歩いてほしかった』
「……うん」
『でも――』
セレネが微笑む。
『ちゃんと、ここまで来てくれたね』
エイルの目から涙が落ちた。
「……遅くなった」
『ううん』
「もっと早く会いたかった」
『それでもいいよ』
「……会いたかった」
『私も』
その言葉とともに。
セレネの姿が消え始める。
「待って!」
『エイル』
「まだ、話したいことが――」
『大丈夫』
最後に。
セレネは、あの日と同じ言葉を言った。
『あなたは、忘れないから』
光が消えた。
静寂。
エイルはしばらく動けなかった。
やがて。
黒い霧の中に、一つの小さな光が残っていることに気づく。
それは――
黒い灯りだった。
けれど。
その中心には、小さな青い光があった。
エイルが手を伸ばす。
触れた瞬間。
声が聞こえた。
『これで、最後の記憶は戻った』
あの少年の声。
「……あなたは誰?」
『まだ、名前は必要ない』
「どうして?」
『君が次に会うとき――』
黒い灯りが、エイルの手の中で揺れる。
『君は、私のことを知っているから』
そして。
霧の向こうから――
巨大な何かが、こちらへ近づいてきた。
今度は。
隠れることもなく。
その姿を現していく。
黒い霧の王。
その身体には無数の顔が浮かんでいた。
泣いている顔。
笑っている顔。
怒っている顔。
そして――
その中に一つだけ。
エイルが知っている顔があった。
「……母さん?」
黒い霧の王が、ゆっくりと口を開く。
「――エイル」
その声は。
幼い頃に聞いた、母親の声だった。