第16章「母の記憶」
「――エイル」
その声を聞いた瞬間。
世界が止まった。
黒い霧の王。
その巨大な身体に浮かぶ無数の顔。
その中の一つだけが――
エイルの母親の顔だった。
「……母さん」
エイルは一歩、前へ出た。
リナが腕を掴む。
「待って、エイル」
「でも……」
「本物か分からない」
「……分かってる」
エイルは母親の顔を見つめる。
霧の中の顔は、微笑んでいた。
『大きくなったね』
その声まで同じだった。
『ずっと会いたかった』
「……」
『私のこと、覚えてる?』
エイルの喉が詰まる。
「覚えてる」
初めて見た記憶。
自分を抱いていた腕。
名前を呼んでくれた声。
そして。
自分をセレネに託した姿。
「……今、思い出した」
母親の顔が微笑む。
『そう』
「どうしてここにいるの?」
『ずっと、ここにいたの』
「この霧の中に?」
『うん』
エイルは眉を寄せる。
「どうして?」
『忘れられたから』
その言葉に。
黒い霧が大きく揺れた。
無数の声が重なる。
『忘れられた』
『忘れられた』
『忘れられた』
エイルは息を呑んだ。
「……母さんも?」
『そう』
「誰に?」
母親は少し悲しそうに笑った。
『世界に』
エイルは黙った。
母親は続ける。
『私は、あなたを産んだ』
『あなたを愛した』
『あなたを守ろうとした』
『でも――』
その顔が霧に溶け始める。
『私のことを覚えている人は、もうほとんどいない』
「……俺がいる」
『うん』
母親は微笑む。
『だから、私はまだここにいる』
エイルの目に涙が浮かぶ。
「じゃあ、この霧を消したら……」
『私も消える』
「……!」
『それだけじゃない』
母親の声が静かになる。
『この霧の中には、たくさんの人がいる』
エイルが周囲を見る。
確かに。
無数の顔が浮かんでいる。
名前を失った人。
記憶を失った人。
誰にも思い出されなくなった人。
彼らは皆、霧の中にいた。
『霧を消すことは』
母親が言う。
『彼らをもう一度、消すことでもある』
「……じゃあ」
エイルは黒い霧を見る。
「どうすればいいの?」
母親は答えなかった。
代わりに。
その顔が少しずつ遠ざかっていく。
『エイル』
「母さん!」
『あなたは、三つの灯りを持っている』
「……うん」
『でも、まだ一つ足りない』
エイルが目を見開く。
「一つ?」
『三つの灯りを灯すには――』
母親の姿が消える。
『名前が必要なの。』
「名前……?」
『忘れられたものには、名前を』
『失われたものには、記憶を』
『そして、これから生まれるものには――』
母親の声が遠くなる。
『願いを』
最後の言葉だけが残った。
『それが、霧を光へ戻す方法』
⸻
静寂が戻った。
エイルは動かなかった。
「……名前」
リナが呟く。
「エイル」
「うん?」
「今の話……」
「うん」
「私、少し分かった気がする」
リナは黒い霧を見る。
「村で忘れられていたものを、私たちが思い出したとき」
「……」
「霧が少し薄くなった」
エイルは思い出す。
母親の声。
村の歌。
古い習慣。
人々の名前。
確かに。
思い出すたびに。
黒い霧は弱くなっていた。
「でも、それだけじゃない」
エイルが言う。
「うん」
「霧の中にいる人たちを、ただ思い出すだけじゃ……」
エイルは黒い灯りを見る。
「今度は、忘れないようにしなきゃいけない」
「どうやって?」
「分からない」
エイルは少し笑った。
「でも、探す」
そのとき。
黒い霧の王が動いた。
地面が大きく揺れる。
「――危ない!」
リナがエイルを引っ張る。
巨大な腕が二人のいた場所を叩いた。
地面が砕ける。
けれど。
その腕から無数の声が響いていた。
『忘れて』
『忘れて』
『忘れて』
エイルは立ち上がる。
「……違う」
灯りを掲げる。
「俺は忘れない」
青い光が広がる。
霧の中に浮かんでいた顔の一つが、光に触れた。
老人の顔。
名前が浮かぶ。
「……トーマ」
エイルが言った。
すると、その顔が穏やかになる。
「エリナ」
別の顔。
「ガルド」
「ミーナ」
「……アルト」
一人。
また一人。
エイルは名前を呼んでいく。
知らない名前まで。
なぜか口から出てくる。
それは。
三つの灯りが見せているのか。
それとも――
霧そのものが教えているのか。
分からない。
でも。
名前を呼ぶたびに。
黒い霧の中から、小さな光が生まれていった。
「エイル……!」
リナが叫ぶ。
「見て!」
無数の光が、霧の中を飛んでいる。
まるで夜空の星のように。
けれど。
黒い霧の王が咆哮する。
「――やめろ」
初めて。
はっきりとした言葉だった。
エイルは顔を上げる。
「……お前も、怖いんだな」
霧の王が止まる。
「忘れられることが」
「……」
「誰にも覚えてもらえなくなることが」
黒い身体が震える。
「だから、全部を霧の中に集めてる」
エイルは黒い灯りを握る。
「でも、それじゃ誰も前に進めない」
白い灯りが輝く。
「俺は――」
青い灯り。
「過去を忘れない」
二つ目の青い灯り。
「今を大切にする」
白い灯り。
「そして、まだ生まれていないものを守る」
三つの光が重なった。
その瞬間。
黒い霧の王の胸に――
一つの名前が浮かび上がった。
エイルはそれを見た。
「……そういうことだったんだ」
リナが尋ねる。
「何?」
エイルは静かに答えた。
「この霧には……」
その名前を口にしようとして。
――止まった。
なぜなら。
その名前は。
エイル自身が、ずっと忘れていた名前だったからだ。
黒い霧の王が、低く呟く。
「――思い出したか」
エイルの手から。
三つの灯りが、同時に消えた。
「――エイル」
その声を聞いた瞬間。
世界が止まった。
黒い霧の王。
その巨大な身体に浮かぶ無数の顔。
その中の一つだけが――
エイルの母親の顔だった。
「……母さん」
エイルは一歩、前へ出た。
リナが腕を掴む。
「待って、エイル」
「でも……」
「本物か分からない」
「……分かってる」
エイルは母親の顔を見つめる。
霧の中の顔は、微笑んでいた。
『大きくなったね』
その声まで同じだった。
『ずっと会いたかった』
「……」
『私のこと、覚えてる?』
エイルの喉が詰まる。
「覚えてる」
初めて見た記憶。
自分を抱いていた腕。
名前を呼んでくれた声。
そして。
自分をセレネに託した姿。
「……今、思い出した」
母親の顔が微笑む。
『そう』
「どうしてここにいるの?」
『ずっと、ここにいたの』
「この霧の中に?」
『うん』
エイルは眉を寄せる。
「どうして?」
『忘れられたから』
その言葉に。
黒い霧が大きく揺れた。
無数の声が重なる。
『忘れられた』
『忘れられた』
『忘れられた』
エイルは息を呑んだ。
「……母さんも?」
『そう』
「誰に?」
母親は少し悲しそうに笑った。
『世界に』
エイルは黙った。
母親は続ける。
『私は、あなたを産んだ』
『あなたを愛した』
『あなたを守ろうとした』
『でも――』
その顔が霧に溶け始める。
『私のことを覚えている人は、もうほとんどいない』
「……俺がいる」
『うん』
母親は微笑む。
『だから、私はまだここにいる』
エイルの目に涙が浮かぶ。
「じゃあ、この霧を消したら……」
『私も消える』
「……!」
『それだけじゃない』
母親の声が静かになる。
『この霧の中には、たくさんの人がいる』
エイルが周囲を見る。
確かに。
無数の顔が浮かんでいる。
名前を失った人。
記憶を失った人。
誰にも思い出されなくなった人。
彼らは皆、霧の中にいた。
『霧を消すことは』
母親が言う。
『彼らをもう一度、消すことでもある』
「……じゃあ」
エイルは黒い霧を見る。
「どうすればいいの?」
母親は答えなかった。
代わりに。
その顔が少しずつ遠ざかっていく。
『エイル』
「母さん!」
『あなたは、三つの灯りを持っている』
「……うん」
『でも、まだ一つ足りない』
エイルが目を見開く。
「一つ?」
『三つの灯りを灯すには――』
母親の姿が消える。
『名前が必要なの。』
「名前……?」
『忘れられたものには、名前を』
『失われたものには、記憶を』
『そして、これから生まれるものには――』
母親の声が遠くなる。
『願いを』
最後の言葉だけが残った。
『それが、霧を光へ戻す方法』
⸻
静寂が戻った。
エイルは動かなかった。
「……名前」
リナが呟く。
「エイル」
「うん?」
「今の話……」
「うん」
「私、少し分かった気がする」
リナは黒い霧を見る。
「村で忘れられていたものを、私たちが思い出したとき」
「……」
「霧が少し薄くなった」
エイルは思い出す。
母親の声。
村の歌。
古い習慣。
人々の名前。
確かに。
思い出すたびに。
黒い霧は弱くなっていた。
「でも、それだけじゃない」
エイルが言う。
「うん」
「霧の中にいる人たちを、ただ思い出すだけじゃ……」
エイルは黒い灯りを見る。
「今度は、忘れないようにしなきゃいけない」
「どうやって?」
「分からない」
エイルは少し笑った。
「でも、探す」
そのとき。
黒い霧の王が動いた。
地面が大きく揺れる。
「――危ない!」
リナがエイルを引っ張る。
巨大な腕が二人のいた場所を叩いた。
地面が砕ける。
けれど。
その腕から無数の声が響いていた。
『忘れて』
『忘れて』
『忘れて』
エイルは立ち上がる。
「……違う」
灯りを掲げる。
「俺は忘れない」
青い光が広がる。
霧の中に浮かんでいた顔の一つが、光に触れた。
老人の顔。
名前が浮かぶ。
「……トーマ」
エイルが言った。
すると、その顔が穏やかになる。
「エリナ」
別の顔。
「ガルド」
「ミーナ」
「……アルト」
一人。
また一人。
エイルは名前を呼んでいく。
知らない名前まで。
なぜか口から出てくる。
それは。
三つの灯りが見せているのか。
それとも――
霧そのものが教えているのか。
分からない。
でも。
名前を呼ぶたびに。
黒い霧の中から、小さな光が生まれていった。
「エイル……!」
リナが叫ぶ。
「見て!」
無数の光が、霧の中を飛んでいる。
まるで夜空の星のように。
けれど。
黒い霧の王が咆哮する。
「――やめろ」
初めて。
はっきりとした言葉だった。
エイルは顔を上げる。
「……お前も、怖いんだな」
霧の王が止まる。
「忘れられることが」
「……」
「誰にも覚えてもらえなくなることが」
黒い身体が震える。
「だから、全部を霧の中に集めてる」
エイルは黒い灯りを握る。
「でも、それじゃ誰も前に進めない」
白い灯りが輝く。
「俺は――」
青い灯り。
「過去を忘れない」
二つ目の青い灯り。
「今を大切にする」
白い灯り。
「そして、まだ生まれていないものを守る」
三つの光が重なった。
その瞬間。
黒い霧の王の胸に――
一つの名前が浮かび上がった。
エイルはそれを見た。
「……そういうことだったんだ」
リナが尋ねる。
「何?」
エイルは静かに答えた。
「この霧には……」
その名前を口にしようとして。
――止まった。
なぜなら。
その名前は。
エイル自身が、ずっと忘れていた名前だったからだ。
黒い霧の王が、低く呟く。
「――思い出したか」
エイルの手から。
三つの灯りが、同時に消えた。