第8章「二つに分かれた灯り」
黒い霧の向こうから現れたものは、獣の形をしていた。
けれど、獣ではない。
四本の脚。
大きな身体。
頭部には二つの青白い目。
そう見えたのは、一瞬だけだった。
輪郭が揺らぐたびに、鹿にも、狼にも、人にも見える。
そして何より奇妙だったのは――
その身体に、顔がなかった。
「……あれは……?」
リナの声が震える。
エイルは答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら、その姿を見た瞬間。
頭の奥に、知らないはずの記憶が流れ込んできたからだ。
『エイル』
誰かが呼んでいる。
『こっちに来て』
白い花畑。
青い空。
笑っているセレネ。
そして――
その隣に立っている、もう一人の誰か。
顔が見えない。
手を伸ばしている。
『君は、何のために生きているの?』
「……っ」
エイルは頭を押さえた。
「エイル!」
「大丈夫……」
そう答えたものの、声はかすれていた。
獣が一歩、近づく。
地面に触れた場所から、草が灰色に変わった。
花が閉じる。
木の葉が落ちる。
森から音が消えていく。
鳥の声も。
風の音も。
虫の羽音さえも。
まるで世界そのものが、息を止めたようだった。
「……忘れて」
獣の口がない場所から、声が響いた。
「忘れて」
「忘れて」
「忘れてしまえば、苦しくない」
その声を聞いた瞬間。
リナがふらりと揺れた。
「……お母さん……?」
エイルが振り返る。
「リナ?」
「今……お母さんが呼んだ気がして……」
黒い霧の中に、誰かの姿が浮かんでいた。
リナの母親だった。
こちらに背を向けている。
「リナ」
「うん……」
「見ないで」
「……え?」
「それは、お母さんじゃない」
エイルは静かに言った。
「俺の記憶にも、同じものが出てきた」
リナが息を呑む。
「……セレネ?」
「たぶん」
獣が首を傾けた。
すると、今度はエイルの目の前にセレネが現れた。
白い髪。
青い瞳。
いつもの笑顔。
「エイル」
懐かしい声。
「帰ろう?」
エイルの足が、ほんの少し動いた。
「……セレネ」
「もう探さなくていいよ」
セレネは笑っている。
「ここにいるから」
「……」
「全部忘れていいんだよ」
優しい声だった。
あまりにも優しい。
だからこそ。
エイルには分かった。
「……違う」
セレネの笑顔が止まる。
「君は、セレネじゃない」
「どうして?」
「セレネは――」
胸元の青いペンダントを握る。
「俺に、忘れろなんて言わない」
その瞬間。
ペンダントが淡い光を放った。
そして、手にしていた青い灯火が強く揺れた。
――二つに分かれた光のうち。
一つがエイルの前へ。
もう一つが、森の奥へ。
「……あっち」
エイルは顔を上げた。
「セレネは、あっちにいる」
「どうして分かるの?」
リナが尋ねる。
「分からない」
「え?」
「でも……」
エイルは小さく笑った。
「この灯りが、そう言ってる」
森の奥。
黒い霧が渦巻いている。
その中心に、かすかに青い光が見えた。
まるで誰かが、遠くから灯りを振っているようだった。
獣が吠える。
音ではない。
頭の中に直接響く声。
「忘れて――!」
黒い霧が一気に押し寄せる。
「走って!」
エイルが叫んだ。
リナの手を掴み、森の奥へ走る。
背後から霧が追ってくる。
木々が黒く染まっていく。
足元の花が、次々と消えていく。
――消える。
枯れるのではない。
最初からそこに存在しなかったかのように。
「エイル!」
「なに?」
「この森……!」
リナが後ろを振り返る。
「道が消えてる!」
エイルも振り返った。
確かに。
二人が歩いてきたはずの道が、もうない。
木々が並んでいるだけだった。
エイルは立ち止まった。
「……戻れない」
「どうするの?」
「戻る必要はないよ」
エイルは森の奥を見る。
青い光が、まだそこにある。
「俺たちは、探しに来たんだから」
「……セレネを?」
「うん」
そして、ほんの少しだけ迷ってから。
「それと――」
胸元のペンダントを見る。
「この世界が、何を忘れようとしているのか」
森の奥で。
青い灯りが一度だけ、大きく瞬いた。
まるで。
「こっちだ」
と、誰かが答えたように。
⸻
二人が森の奥へ消えたあと。
誰もいなくなった道に、黒い霧だけが残った。
その霧の中から、小さな声がする。
「……まだ、思い出すの?」
別の声が答えた。
「うん」
「どうして?」
「だって――」
声は、どこか悲しそうだった。
「忘れられたら、もう一度消えることになるから」
黒い霧の向こうで。
白い花が一輪だけ、咲いた。
その花びらには――
「セレネ」
という文字が刻まれていた。
黒い霧の向こうから現れたものは、獣の形をしていた。
けれど、獣ではない。
四本の脚。
大きな身体。
頭部には二つの青白い目。
そう見えたのは、一瞬だけだった。
輪郭が揺らぐたびに、鹿にも、狼にも、人にも見える。
そして何より奇妙だったのは――
その身体に、顔がなかった。
「……あれは……?」
リナの声が震える。
エイルは答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら、その姿を見た瞬間。
頭の奥に、知らないはずの記憶が流れ込んできたからだ。
『エイル』
誰かが呼んでいる。
『こっちに来て』
白い花畑。
青い空。
笑っているセレネ。
そして――
その隣に立っている、もう一人の誰か。
顔が見えない。
手を伸ばしている。
『君は、何のために生きているの?』
「……っ」
エイルは頭を押さえた。
「エイル!」
「大丈夫……」
そう答えたものの、声はかすれていた。
獣が一歩、近づく。
地面に触れた場所から、草が灰色に変わった。
花が閉じる。
木の葉が落ちる。
森から音が消えていく。
鳥の声も。
風の音も。
虫の羽音さえも。
まるで世界そのものが、息を止めたようだった。
「……忘れて」
獣の口がない場所から、声が響いた。
「忘れて」
「忘れて」
「忘れてしまえば、苦しくない」
その声を聞いた瞬間。
リナがふらりと揺れた。
「……お母さん……?」
エイルが振り返る。
「リナ?」
「今……お母さんが呼んだ気がして……」
黒い霧の中に、誰かの姿が浮かんでいた。
リナの母親だった。
こちらに背を向けている。
「リナ」
「うん……」
「見ないで」
「……え?」
「それは、お母さんじゃない」
エイルは静かに言った。
「俺の記憶にも、同じものが出てきた」
リナが息を呑む。
「……セレネ?」
「たぶん」
獣が首を傾けた。
すると、今度はエイルの目の前にセレネが現れた。
白い髪。
青い瞳。
いつもの笑顔。
「エイル」
懐かしい声。
「帰ろう?」
エイルの足が、ほんの少し動いた。
「……セレネ」
「もう探さなくていいよ」
セレネは笑っている。
「ここにいるから」
「……」
「全部忘れていいんだよ」
優しい声だった。
あまりにも優しい。
だからこそ。
エイルには分かった。
「……違う」
セレネの笑顔が止まる。
「君は、セレネじゃない」
「どうして?」
「セレネは――」
胸元の青いペンダントを握る。
「俺に、忘れろなんて言わない」
その瞬間。
ペンダントが淡い光を放った。
そして、手にしていた青い灯火が強く揺れた。
――二つに分かれた光のうち。
一つがエイルの前へ。
もう一つが、森の奥へ。
「……あっち」
エイルは顔を上げた。
「セレネは、あっちにいる」
「どうして分かるの?」
リナが尋ねる。
「分からない」
「え?」
「でも……」
エイルは小さく笑った。
「この灯りが、そう言ってる」
森の奥。
黒い霧が渦巻いている。
その中心に、かすかに青い光が見えた。
まるで誰かが、遠くから灯りを振っているようだった。
獣が吠える。
音ではない。
頭の中に直接響く声。
「忘れて――!」
黒い霧が一気に押し寄せる。
「走って!」
エイルが叫んだ。
リナの手を掴み、森の奥へ走る。
背後から霧が追ってくる。
木々が黒く染まっていく。
足元の花が、次々と消えていく。
――消える。
枯れるのではない。
最初からそこに存在しなかったかのように。
「エイル!」
「なに?」
「この森……!」
リナが後ろを振り返る。
「道が消えてる!」
エイルも振り返った。
確かに。
二人が歩いてきたはずの道が、もうない。
木々が並んでいるだけだった。
エイルは立ち止まった。
「……戻れない」
「どうするの?」
「戻る必要はないよ」
エイルは森の奥を見る。
青い光が、まだそこにある。
「俺たちは、探しに来たんだから」
「……セレネを?」
「うん」
そして、ほんの少しだけ迷ってから。
「それと――」
胸元のペンダントを見る。
「この世界が、何を忘れようとしているのか」
森の奥で。
青い灯りが一度だけ、大きく瞬いた。
まるで。
「こっちだ」
と、誰かが答えたように。
⸻
二人が森の奥へ消えたあと。
誰もいなくなった道に、黒い霧だけが残った。
その霧の中から、小さな声がする。
「……まだ、思い出すの?」
別の声が答えた。
「うん」
「どうして?」
「だって――」
声は、どこか悲しそうだった。
「忘れられたら、もう一度消えることになるから」
黒い霧の向こうで。
白い花が一輪だけ、咲いた。
その花びらには――
「セレネ」
という文字が刻まれていた。