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第七章 夜を食む霧
村中の人々が、空を見上げていた。

誰も声を上げない。

誰も動かない。

ただ、夜空を見つめている。

まるで、そこに何か大切なものが浮かんでいるかのように。

やがて、一人の女性が呟いた。

「……セレネ」

その名前に、別の誰かが反応する。

「セレネ……?」

「誰だった?」

「分からない」

「でも……知ってる」

村のあちこちから、同じ声が上がり始める。

忘れていた名前。

忘れていた声。

忘れていた顔。

それらが、ほんの一瞬だけ人々の中に戻ってきていた。

けれど。

それと同時に――

「……寒い」

誰かが呟いた。

夜の気温が急に下がった。

エイルは立ち上がる。

「リナ」

「うん」

二人は礼拝堂の外へ出た。

そして、息を呑んだ。

村の北側。

森の向こう。

黒い霧が見える。

昨日までなら、遠くに薄く漂っている程度だった。

今は違う。

森全体を覆うほどに広がっている。

「……あれ」

リナの声が震える。

「昨日より近い」

エイルは答えなかった。

ランタンを見つめる。

青い光が、激しく明滅している。

こんな反応は初めてだった。

「……怖がってる」

「ランタンが?」

「うん」

エイルは霧を見る。

黒い。

ただ黒いだけではない。

よく見ると、その中に何かが浮かんでいる。

人影。

動物。

木々。

そして――

村人たちの記憶。

霧の中に、昨日までの村の光景が映し出されている。

「幻……?」

リナが呟く。

「違う」

エイルは首を振った。

「あれは記憶だ」

「じゃあ、どうして外に?」

「分からない」

霧が動いた。

一人の少女の姿が浮かび上がる。

白い髪。

青い瞳。

セレネ。

エイルの心臓が大きく跳ねた。

「……セレネ」

霧の中の少女が、こちらを見る。

そして――

笑った。

『エイル』

声が聞こえる。

「セレネ!」

エイルが一歩踏み出す。

リナが腕を掴んだ。

「待って!」

「でも!」

「何かおかしい!」

エイルが止まる。

霧の中のセレネが、もう一度笑った。

『こっちへ来て』

「……」

『ずっと待ってた』

エイルの足が動きかける。

その瞬間。

ランタンが強烈な光を放った。

霧の中のセレネの姿が、一瞬で歪む。

人の形が崩れた。

顔が消える。

白い髪が黒く染まる。

そして、その口から――

別の声が漏れた。

『おいで』

エイルの背筋に冷たいものが走る。

「……違う」

リナが震える声で言った。

「セレネじゃない」

エイルも頷く。

「うん」

黒い霧が、こちらへ流れてくる。

「戻ろう」

エイルが言った。

「早く」

二人は村へ走った。



宿屋へ戻ると、村人たちは混乱していた。

記憶が戻った者。

戻らない者。

突然泣き出す者。

何かを探して家の中を歩き回る者。

「お母さん……」

リナの母親が、娘を抱きしめる。

「リナ……」

「お母さん?」

「あなたの名前……」

母親は泣いていた。

「ずっと知ってたのに……どうして忘れてたんだろう」

リナは何も言わず、母親を抱きしめた。

エイルは少し離れたところから、その光景を見ていた。

胸が温かくなる。

けれど――

同時に、恐怖もあった。

もし黒い霧がもっと広がれば。

この村だけでは済まない。

そして。

「……セレネ」

名前を口にする。

ペンダントが淡く光った。

「君は、あの霧と戦ってたんだね」

誰も答えない。



翌朝。

村長がエイルを訪ねてきた。

「北の森へ行く」

開口一番だった。

「私も行きます」

エイルが答える。

「そう言うと思った」

村長は深く息を吐いた。

「だが、危険だ」

「分かっています」

「黒い霧は、昨日までとは違う」

「はい」

老人は窓の外を見る。

「夜の間に、森の半分が黒くなった」

エイルは黙る。

「このままでは、あと数日も持たない」

「何が?」

「村が」

その言葉に、リナが顔を上げた。

「村が……消えるの?」

村長は頷いた。

「正確には、村が『忘れられる』」

「……」

「土地の名前も、人の名前も、建物も、思い出も」

「全部?」

「ああ」

「じゃあ……」

リナの顔が青ざめる。

「お母さんのことも?」

村長は答えなかった。

それが答えだった。

エイルは拳を握った。

「止める方法は?」

「一つだけある」

「何ですか?」

「白樹の根元にある『夢の泉』を探す」

エイルの胸が反応した。

「夢の泉……?」

「昔、セレネが守っていた場所だ」

「そこに行けば、霧を止められる?」

「分からん」

村長は首を振った。

「だが、セレネが最後に残した力があるとすれば、そこだ」

エイルはランタンを見る。

青い光が、北を向いている。

「……行きましょう」

「エイル」

リナが呼ぶ。

「僕は行く」

「私も」

「危険だよ」

「分かってる」

「戻れなくなるかもしれない」

リナは少し黙った。

そして。

「昨日、お母さんの声を思い出した」

エイルを見る。

「だから今度は、忘れたくない」

エイルは何も言わなかった。

ただ、静かに頷いた。



二人が村を出る準備をしていると、村長がエイルを呼び止めた。

「一つだけ、伝えておきたい」

「何ですか?」

老人は古い写真を差し出した。

昨日のものとは違う。

そこには――

セレネが写っていた。

一人で。

白い樹の前に立っている。

そして、その手には――

青いランタン。

エイルの持っているものと、まったく同じだった。

「……これは」

「セレネのものだ」

「じゃあ、僕のランタンは……」

村長は首を振る。

「それは分からん」

エイルは写真を見つめる。

セレネが持っているランタン。

自分が持っているランタン。

二つは同じ。

でも――

写真の裏側には、短い文字が書かれていた。

《灯りは一つではない》

エイルは眉を寄せる。

「どういう意味ですか?」

村長は答えなかった。

ただ、北の森を見た。

黒い霧が、木々の間からこちらを覗いている。

「それを知るために行くんだ」



村を出る。

リナが振り返る。

「……また帰ってこられるかな」

エイルは村を見る。

「帰ってこよう」

「約束?」

「うん」

「絶対?」

エイルは少し考えてから笑った。

「絶対って言うと、何か怖いね」

「そこは言ってよ」

「……じゃあ」

エイルはランタンを掲げる。

「帰ってくるために、ちゃんと頑張る」

リナは笑った。

「うん」

二人は森へ入った。



森の中は静かだった。

鳥の声がしない。

風もない。

ただ、遠くから何かが擦れる音が聞こえる。

エイルはランタンを頼りに進む。

青い光が道を示している。

「ねえ、エイル」

「なに?」

「昨日の霧の中にいたセレネ」

「うん」

「……あれ、本当に偽物だったの?」

エイルは足を止めた。

「分からない」

「でも、ランタンは反応した」

「そう」

「じゃあ、本物のセレネがどこかにいる可能性も?」

エイルはしばらく黙っていた。

「……あると思う」

「生きてる?」

「分からない」

「また『分からない』」

「仕方ないよ」

エイルは少し笑った。

けれど、その表情には以前とは違うものがあった。

希望。

それと――

恐怖。

森の奥から、何かが聞こえた。

『エイル……』

二人が同時に振り返る。

誰もいない。

ただ。

木の幹に黒い染みが広がっている。

その中心に、文字が浮かんでいた。

――セレネを探すな。

エイルはその文字を見つめる。

「……誰が書いた?」

返事はない。

ランタンが明滅する。

一度。

二度。

三度。

そして、青い光が――

初めて、二つに分かれた。

一つは北へ。

もう一つは――

森のさらに深い場所へ。

エイルは息を呑む。

「……灯りは一つではない」

リナが呟いた。

二人は顔を見合わせる。

どちらの道を選ぶべきなのか。

その答えを出す前に――

森の奥から、巨大な黒い影が姿を現した。

獣のような形。

けれど目も口もない。

ただ、黒い霧だけでできた身体。

エイルが杖を抜く。

リナが後ろへ下がる。

黒い獣が地面を踏みしめた。

その瞬間。

森全体から、無数の声が響いた。

『忘れて』

『忘れて』

『忘れて』

エイルは杖を構える。

浅葱色の瞳が、まっすぐに黒い獣を捉えた。

「……嫌だ」

初めて。

エイルは、迷いなく言った。

「もう、誰も忘れさせない」

青い光が弾ける。

黒い森を、一瞬だけ昼のように照らした。