第四章 地下に眠る記憶
夜の礼拝堂は、昼間とはまるで別の場所に見えた。
月明かりさえ届かない。
扉を閉めると、村の音がすべて遠ざかる。
エイルはランタンを掲げた。
淡い水色の光が、古い石壁を照らす。
「……本当に行くの?」
後ろからリナが小さな声で聞いた。
「うん」
「怖くない?」
エイルは少し考えた。
「怖いよ」
「……」
「でも、怖いからって何もしないと、たぶん後悔する」
リナはしばらく黙っていた。
「じゃあ、私も行く」
「危ないかもしれないよ」
「知ってる」
「帰ってもいいんだよ」
「知ってる」
「……それでも?」
「それでも」
エイルは振り返った。
リナは少しだけ胸を張った。
「一緒に探すって言ったから」
エイルは何も言わなかった。
ただ、微笑んだ。
「……ありがとう」
二人は地下へ続く階段を下りていった。
⸻
階段は思ったよりも長かった。
十段。
二十段。
三十段。
石壁には無数の名前が刻まれている。
その一つ一つに、薄い青色の光が宿っていた。
「これ……全部、人の名前?」
リナが尋ねる。
「たぶん」
「何人いるんだろう」
「分からない」
「エイルなら数えられる?」
「数えるのは得意じゃない」
「意外」
「僕、旅人だから」
「関係ある?」
「ないね」
リナが笑う。
地下に響くその声が、少しだけ空気を柔らかくした。
やがて階段が終わる。
そこには大きな石の扉があった。
扉には、古い紋章が刻まれている。
白い樹。
その根元に、青い灯火。
エイルが手を伸ばす。
すると――
扉の紋章が光った。
胸元のペンダントも呼応する。
「……やっぱり」
エイルは小さく呟いた。
「僕はここに来たことがある」
リナが見る。
「覚えてる?」
「まだ」
「まだ?」
「でも……知ってる」
エイルは扉に触れた。
その瞬間。
頭の中に、声が響いた。
『エイル』
今度ははっきり聞こえた。
少女の声。
優しくて、少し寂しい声。
『こっち』
エイルの手が震えた。
「……君は誰?」
返事はない。
代わりに扉が開いた。
⸻
部屋の中央には、大きな水晶があった。
水晶の中で、無数の光が漂っている。
まるで星空のようだった。
「きれい……」
リナが息を呑む。
エイルは近づいた。
水晶の表面に触れる。
その瞬間――
世界が反転した。
⸻
「エイル、早く!」
少女が走っている。
白い髪。
淡い青の瞳。
年齢はエイルと同じくらいに見える。
少女は振り返って笑った。
「置いていくよ!」
「待って」
エイルが追いかける。
二人が走っているのは、白い花畑。
遠くには巨大な樹が見える。
その枝には無数の青い光。
「これ、全部夢なの?」
エイルが聞く。
少女は振り返った。
「夢じゃないよ」
「じゃあ何?」
「忘れられた記憶」
少女は笑った。
「世界が忘れても、私たちが覚えていれば消えない」
エイルは少女を見る。
「じゃあ、ずっと覚えていよう」
少女の笑顔が少し曇る。
「……うん」
「どうしたの?」
「なんでもない」
「嘘」
「エイルは、そういうところだけ鋭いね」
少女は笑った。
そして、胸元から何かを取り出した。
小さな青い石。
「これ、あげる」
「何?」
「約束の石」
「約束?」
「うん」
少女はエイルの手を握った。
「もし私がいなくなっても――」
そこで映像が途切れた。
⸻
「エイル!」
現実に引き戻される。
リナがエイルの肩を掴んでいる。
「大丈夫?」
エイルは息を整えた。
「……今の」
「何だったの?」
「分からない」
けれど、一つだけ分かった。
あの少女。
彼女が、ペンダントの持ち主だった。
エイルは胸元を見る。
水色の石。
ずっと自分が身につけていたもの。
「このペンダント……」
指先で触れる。
「僕がもらったんだ」
リナが静かに尋ねる。
「誰から?」
「……分からない」
「さっきの女の子?」
エイルは頷いた。
「たぶん」
そのとき。
水晶の中の光が一つ、強く輝いた。
部屋の奥に映像が浮かぶ。
今度は、村だった。
リーネ村。
けれど、今とは違う。
建物が新しい。
村人たちが笑っている。
そして村の中央に、大きな白い樹が立っている。
「昔の村……?」
リナが呟く。
エイルは映像を見る。
そこには、たくさんの人々がいた。
そして――
誰もが同じ少女を見ていた。
「……あの子」
少女は村の中央に立っている。
人々から祝福されている。
まるで、この村の中心にいるようだった。
映像が変わる。
夜。
村人たちが礼拝堂へ集まっている。
少女もいる。
エイルもいる。
そして、白い樹の根元には巨大な黒い影があった。
黒い霧。
それが樹を包み込んでいる。
「……これは」
エイルの顔が青ざめる。
「黒い霧……」
その言葉を口にした瞬間。
頭の奥が痛んだ。
黒い霧。
聞いたことがある。
見たことがある。
ずっと昔から。
けれど、どこで?
映像の中で、少女が何かを叫んでいる。
声は聞こえない。
エイルは必死に読み取ろうとする。
少女がエイルの方を向いた。
泣いている。
そして――
エイルの胸に手を当てた。
ペンダントが光る。
次の瞬間。
黒い霧が二人を包み込んだ。
映像が途切れる。
⸻
「……エイル」
リナの声が震えている。
「今の……」
「うん」
「何が起きたの?」
エイルは答えられなかった。
そのとき。
水晶の光が消えた。
部屋が暗くなる。
ランタンだけが残る。
その青い光が、部屋の奥を照らした。
そこには、一つの小さな箱が置かれていた。
エイルが近づく。
箱を開ける。
中に入っていたのは、一枚の手紙だった。
紙は古い。
けれど文字は鮮明だった。
エイルは読み上げる。
「『エイルへ』……」
リナが息を呑む。
「続きは?」
エイルは読む。
『君がこれを読んでいるということは、きっと私はもう君の隣にはいないのでしょう』
エイルの手が止まった。
『でも、悲しまないで』
『私がいなくなったのは、君のせいではない』
『そして、お願いがあります』
『どうか、世界を嫌いにならないで』
エイルの呼吸が止まる。
『世界は、時々とても残酷です』
『大切なものを奪います』
『忘れたくないことまで、忘れさせます』
『それでも――』
そこで文字が途切れていた。
エイルは紙を裏返す。
何もない。
「……ここまで?」
リナが聞く。
「うん」
「続きは?」
「ないみたい」
エイルは手紙を握った。
その指先が震えている。
「……どうして」
「エイル?」
「どうして、僕は覚えてないんだろう」
初めてだった。
エイルが、自分の感情を隠さなかった。
「どうして、この子のことを忘れてるんだろう」
「……」
「どうして、僕だけ……」
言葉が続かない。
リナは何も言わなかった。
ただ、隣に立った。
しばらくして、エイルが目を閉じる。
「……ごめん」
「何が?」
「少しだけ、弱音を吐いた」
リナは首を振った。
「いいよ」
「ありがとう」
「私も、昨日お母さんの声を忘れてたとき、怖かったから」
エイルが顔を上げる。
「……そっか」
「だから、たぶん同じ」
リナは笑った。
「忘れたものを探すのって、怖いよね」
エイルも少し笑った。
「うん」
ランタンが二人を照らす。
その光は、さっきまでよりも柔らかかった。
⸻
帰ろうとした、そのとき。
部屋の奥から音がした。
カタン。
二人が振り返る。
石壁の一部が動いている。
隠し扉。
エイルが近づく。
扉の隙間から、冷たい風が流れてくる。
その向こうから――
誰かの声がした。
『エイル』
今度は、はっきりと。
あの少女の声。
エイルは動けなくなった。
『まだ、来ちゃだめ』
「……君は誰?」
『あなたが思い出すまで』
「何を?」
しばらく沈黙。
そして少女は、静かに答えた。
『私を』
扉が閉じる。
完全な静寂。
エイルはしばらくその場に立っていた。
やがて胸元のペンダントを握る。
「……必ず思い出す」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「君が誰なのか」
ランタンの光が揺れる。
「僕が何者なのか」
そして――
「何を忘れてしまったのか」
青い灯火は、答えるように静かに輝いた。
その頃。
礼拝堂の地上では、村長が一人で夜空を見上げていた。
「……とうとう来たか」
老人の手には、古びた一枚の写真がある。
そこには、幼いエイルと――
あの少女が写っていた。
村長は目を閉じる。
「すまんな」
誰に謝っているのか。
それは、まだ誰にも分からない。
「……約束だったんだ」
写真の中で。
少女だけが、笑っていた。
夜の礼拝堂は、昼間とはまるで別の場所に見えた。
月明かりさえ届かない。
扉を閉めると、村の音がすべて遠ざかる。
エイルはランタンを掲げた。
淡い水色の光が、古い石壁を照らす。
「……本当に行くの?」
後ろからリナが小さな声で聞いた。
「うん」
「怖くない?」
エイルは少し考えた。
「怖いよ」
「……」
「でも、怖いからって何もしないと、たぶん後悔する」
リナはしばらく黙っていた。
「じゃあ、私も行く」
「危ないかもしれないよ」
「知ってる」
「帰ってもいいんだよ」
「知ってる」
「……それでも?」
「それでも」
エイルは振り返った。
リナは少しだけ胸を張った。
「一緒に探すって言ったから」
エイルは何も言わなかった。
ただ、微笑んだ。
「……ありがとう」
二人は地下へ続く階段を下りていった。
⸻
階段は思ったよりも長かった。
十段。
二十段。
三十段。
石壁には無数の名前が刻まれている。
その一つ一つに、薄い青色の光が宿っていた。
「これ……全部、人の名前?」
リナが尋ねる。
「たぶん」
「何人いるんだろう」
「分からない」
「エイルなら数えられる?」
「数えるのは得意じゃない」
「意外」
「僕、旅人だから」
「関係ある?」
「ないね」
リナが笑う。
地下に響くその声が、少しだけ空気を柔らかくした。
やがて階段が終わる。
そこには大きな石の扉があった。
扉には、古い紋章が刻まれている。
白い樹。
その根元に、青い灯火。
エイルが手を伸ばす。
すると――
扉の紋章が光った。
胸元のペンダントも呼応する。
「……やっぱり」
エイルは小さく呟いた。
「僕はここに来たことがある」
リナが見る。
「覚えてる?」
「まだ」
「まだ?」
「でも……知ってる」
エイルは扉に触れた。
その瞬間。
頭の中に、声が響いた。
『エイル』
今度ははっきり聞こえた。
少女の声。
優しくて、少し寂しい声。
『こっち』
エイルの手が震えた。
「……君は誰?」
返事はない。
代わりに扉が開いた。
⸻
部屋の中央には、大きな水晶があった。
水晶の中で、無数の光が漂っている。
まるで星空のようだった。
「きれい……」
リナが息を呑む。
エイルは近づいた。
水晶の表面に触れる。
その瞬間――
世界が反転した。
⸻
「エイル、早く!」
少女が走っている。
白い髪。
淡い青の瞳。
年齢はエイルと同じくらいに見える。
少女は振り返って笑った。
「置いていくよ!」
「待って」
エイルが追いかける。
二人が走っているのは、白い花畑。
遠くには巨大な樹が見える。
その枝には無数の青い光。
「これ、全部夢なの?」
エイルが聞く。
少女は振り返った。
「夢じゃないよ」
「じゃあ何?」
「忘れられた記憶」
少女は笑った。
「世界が忘れても、私たちが覚えていれば消えない」
エイルは少女を見る。
「じゃあ、ずっと覚えていよう」
少女の笑顔が少し曇る。
「……うん」
「どうしたの?」
「なんでもない」
「嘘」
「エイルは、そういうところだけ鋭いね」
少女は笑った。
そして、胸元から何かを取り出した。
小さな青い石。
「これ、あげる」
「何?」
「約束の石」
「約束?」
「うん」
少女はエイルの手を握った。
「もし私がいなくなっても――」
そこで映像が途切れた。
⸻
「エイル!」
現実に引き戻される。
リナがエイルの肩を掴んでいる。
「大丈夫?」
エイルは息を整えた。
「……今の」
「何だったの?」
「分からない」
けれど、一つだけ分かった。
あの少女。
彼女が、ペンダントの持ち主だった。
エイルは胸元を見る。
水色の石。
ずっと自分が身につけていたもの。
「このペンダント……」
指先で触れる。
「僕がもらったんだ」
リナが静かに尋ねる。
「誰から?」
「……分からない」
「さっきの女の子?」
エイルは頷いた。
「たぶん」
そのとき。
水晶の中の光が一つ、強く輝いた。
部屋の奥に映像が浮かぶ。
今度は、村だった。
リーネ村。
けれど、今とは違う。
建物が新しい。
村人たちが笑っている。
そして村の中央に、大きな白い樹が立っている。
「昔の村……?」
リナが呟く。
エイルは映像を見る。
そこには、たくさんの人々がいた。
そして――
誰もが同じ少女を見ていた。
「……あの子」
少女は村の中央に立っている。
人々から祝福されている。
まるで、この村の中心にいるようだった。
映像が変わる。
夜。
村人たちが礼拝堂へ集まっている。
少女もいる。
エイルもいる。
そして、白い樹の根元には巨大な黒い影があった。
黒い霧。
それが樹を包み込んでいる。
「……これは」
エイルの顔が青ざめる。
「黒い霧……」
その言葉を口にした瞬間。
頭の奥が痛んだ。
黒い霧。
聞いたことがある。
見たことがある。
ずっと昔から。
けれど、どこで?
映像の中で、少女が何かを叫んでいる。
声は聞こえない。
エイルは必死に読み取ろうとする。
少女がエイルの方を向いた。
泣いている。
そして――
エイルの胸に手を当てた。
ペンダントが光る。
次の瞬間。
黒い霧が二人を包み込んだ。
映像が途切れる。
⸻
「……エイル」
リナの声が震えている。
「今の……」
「うん」
「何が起きたの?」
エイルは答えられなかった。
そのとき。
水晶の光が消えた。
部屋が暗くなる。
ランタンだけが残る。
その青い光が、部屋の奥を照らした。
そこには、一つの小さな箱が置かれていた。
エイルが近づく。
箱を開ける。
中に入っていたのは、一枚の手紙だった。
紙は古い。
けれど文字は鮮明だった。
エイルは読み上げる。
「『エイルへ』……」
リナが息を呑む。
「続きは?」
エイルは読む。
『君がこれを読んでいるということは、きっと私はもう君の隣にはいないのでしょう』
エイルの手が止まった。
『でも、悲しまないで』
『私がいなくなったのは、君のせいではない』
『そして、お願いがあります』
『どうか、世界を嫌いにならないで』
エイルの呼吸が止まる。
『世界は、時々とても残酷です』
『大切なものを奪います』
『忘れたくないことまで、忘れさせます』
『それでも――』
そこで文字が途切れていた。
エイルは紙を裏返す。
何もない。
「……ここまで?」
リナが聞く。
「うん」
「続きは?」
「ないみたい」
エイルは手紙を握った。
その指先が震えている。
「……どうして」
「エイル?」
「どうして、僕は覚えてないんだろう」
初めてだった。
エイルが、自分の感情を隠さなかった。
「どうして、この子のことを忘れてるんだろう」
「……」
「どうして、僕だけ……」
言葉が続かない。
リナは何も言わなかった。
ただ、隣に立った。
しばらくして、エイルが目を閉じる。
「……ごめん」
「何が?」
「少しだけ、弱音を吐いた」
リナは首を振った。
「いいよ」
「ありがとう」
「私も、昨日お母さんの声を忘れてたとき、怖かったから」
エイルが顔を上げる。
「……そっか」
「だから、たぶん同じ」
リナは笑った。
「忘れたものを探すのって、怖いよね」
エイルも少し笑った。
「うん」
ランタンが二人を照らす。
その光は、さっきまでよりも柔らかかった。
⸻
帰ろうとした、そのとき。
部屋の奥から音がした。
カタン。
二人が振り返る。
石壁の一部が動いている。
隠し扉。
エイルが近づく。
扉の隙間から、冷たい風が流れてくる。
その向こうから――
誰かの声がした。
『エイル』
今度は、はっきりと。
あの少女の声。
エイルは動けなくなった。
『まだ、来ちゃだめ』
「……君は誰?」
『あなたが思い出すまで』
「何を?」
しばらく沈黙。
そして少女は、静かに答えた。
『私を』
扉が閉じる。
完全な静寂。
エイルはしばらくその場に立っていた。
やがて胸元のペンダントを握る。
「……必ず思い出す」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「君が誰なのか」
ランタンの光が揺れる。
「僕が何者なのか」
そして――
「何を忘れてしまったのか」
青い灯火は、答えるように静かに輝いた。
その頃。
礼拝堂の地上では、村長が一人で夜空を見上げていた。
「……とうとう来たか」
老人の手には、古びた一枚の写真がある。
そこには、幼いエイルと――
あの少女が写っていた。
村長は目を閉じる。
「すまんな」
誰に謝っているのか。
それは、まだ誰にも分からない。
「……約束だったんだ」
写真の中で。
少女だけが、笑っていた。