第3章 声を失った村
礼拝堂から戻った頃には、昼を少し過ぎていた。
村は何事もなかったかのように、いつもの日常を取り戻している。
畑を耕す人。
井戸で水を汲む人。
軒先で洗濯物を干す人。
誰も、鐘の音について話さない。
エイルは宿屋の前で足を止めた。
「……誰も気にしてない」
隣にいたリナが首を傾げる。
「何を?」
「さっきの鐘」
「ああ……」
リナは少し考えた。
「鳴ったことを忘れてるのかも」
「そうかもしれない」
エイルはランタンを見る。
青い光は、すっかり元の明るさに戻っている。
「でも、どうして?」
「分からない」
「エイルにも?」
「僕は何でも知ってるように見える?」
リナはエイルの顔をじっと見た。
「ううん」
「即答なんだ」
「だって、昨日からずっと『分からない』って言ってるもん」
「……確かに」
エイルは少し笑った。
リナも笑った。
ほんの短い時間だった。
けれどエイルは、不思議な気持ちになった。
誰かとこうして笑うことが、ずいぶん久しぶりのような気がした。
⸻
「まず、村の人に話を聞いてみよう」
「誰に?」
「できれば年長者」
「じゃあ、村長さん」
「そうしよう」
村長の家は、村の北側にあった。
木造の小さな家。
庭には薬草が干されている。
リナが扉を叩く。
「村長さん、いる?」
「おや、リナかい」
出てきたのは、白髪の老人だった。
杖をついている。
穏やかな顔をしているが、エイルを見ると表情が少し硬くなった。
「……旅の人か」
「エイルです」
「何の用かな?」
「少し村について聞きたいことがあります」
村長は黙った。
「……どんなことを?」
「昔のことです」
その瞬間。
老人の顔から笑みが消えた。
「昔?」
「はい」
「昔の何を?」
「この村の歴史です」
長い沈黙。
やがて村長は、小さく首を振った。
「……知らんよ」
「村長さんなのに?」
リナが尋ねる。
「村長だからこそ、知らないんだ」
エイルは目を細めた。
「どういう意味ですか?」
老人は答えなかった。
代わりに、庭に干してあった薬草を一つ手に取った。
「これは何だと思う?」
「薬草……ですよね?」
「名前は?」
「……」
エイルは黙った。
「分からない?」
「はい」
「この村では誰も知らん」
老人は薬草を見つめた。
「昔からこの村にあるものなのに、名前だけが誰の記憶からも消えてしまった」
「いつからですか?」
「分からん」
「……」
「そこから先を覚えている者がいないからな」
エイルの背筋に、冷たいものが走った。
「誰かが意図的に記憶を消した?」
村長はゆっくりとエイルを見る。
「そう考えたこともある」
「でも違う?」
「分からん」
その言葉に、エイルは少しだけ苦笑した。
「僕と同じですね」
村長は笑わなかった。
「旅人」
「はい」
「君は何者だ?」
エイルは少し考えた。
「……僕も知りたいです」
老人の目がわずかに揺れた。
「そうか」
それ以上、村長は何も言わなかった。
⸻
村長の家を出ると、リナが言った。
「やっぱり変だね」
「うん」
「でも、村長さんは何か知ってる」
「たぶんね」
「聞き出せなかった」
「無理に聞く必要はないよ」
「どうして?」
「話したくないことを無理に聞いても、嘘しか返ってこないから」
リナがエイルを見る。
「……エイルって、変なところで優しいね」
「そう?」
「うん」
「初めて言われた」
「本当?」
「たぶん」
「また『たぶん』」
リナが笑う。
エイルも笑った。
そのとき。
村の中央から声が聞こえた。
「誰か来てくれ!」
二人が振り返る。
畑の方から、男が走ってくる。
「子どもが倒れた!」
⸻
倒れていたのは、七歳くらいの男の子だった。
母親が泣きながら抱きかかえている。
「急に……急に倒れて……」
エイルは少年のそばにしゃがんだ。
「少し見せてください」
「でも……」
「大丈夫です」
エイルは少年の額に手を当てる。
熱はない。
呼吸も正常。
なのに、意識だけがない。
「……眠ってる?」
リナが聞く。
「違う」
エイルは少年の胸元を見る。
そこに、小さな水色の光が浮かんでいた。
「……これは」
エイルのランタンが反応する。
少年の中にある何かと共鳴している。
エイルは目を閉じた。
魔力を流す。
すると――
少年の記憶が流れ込んできた。
母親の笑顔。
父親と遊んだ記憶。
川で魚を捕った日。
誕生日。
友達。
そして――
誰かと一緒に、礼拝堂へ入る姿。
エイルの目が開いた。
「……礼拝堂?」
その瞬間。
少年が目を覚ました。
「……お母さん?」
母親が泣きながら抱きしめる。
「よかった……!」
少年は困った顔をする。
「どうしたの?」
「あなた、急に倒れたのよ」
「……?」
少年は首を傾げた。
「僕、何してたの?」
エイルは答えなかった。
ただ、少年の記憶の中にあった一つの場面が気になっていた。
礼拝堂。
そして――
誰かに手を引かれている少年。
その人物の顔だけが、黒く塗りつぶされていた。
⸻
夕方。
エイルとリナは川辺にいた。
リナは石を拾って、水面へ投げる。
ぽちゃん。
「ねえ」
「なに?」
「エイルは、怖くないの?」
「何が?」
「自分の記憶」
エイルは黙った。
「怖いよ」
「そうなの?」
「うん」
「そうは見えない」
「よく言われる」
リナは水面を見つめる。
「じゃあ、なんで探すの?」
エイルはランタンを見る。
「……分からない」
「また?」
「うん」
少し間を置いてから、エイルは続けた。
「でも、忘れているものがあるなら……それはきっと、僕が忘れてはいけなかったものだと思う」
「大切なもの?」
「たぶん」
「誰か?」
エイルは答えなかった。
胸元のペンダントを握る。
「……そうかもしれない」
そのとき。
リナが突然、エイルの顔を見た。
「ねえ」
「うん?」
「私、お母さんの声を思い出した」
エイルが振り返る。
「本当に?」
「うん」
「どんな声?」
リナは嬉しそうに笑った。
「優しい声」
それだけ言って、しばらく黙った。
そして――
「でも、もう一つ思い出した」
「何を?」
リナの表情が変わった。
「お母さんが、私に言ってた」
「……何て?」
「『青い灯りを持った人には、ついていっちゃいけない』って」
エイルの顔から、笑みが消えた。
風が止まる。
川の音だけが聞こえる。
「……いつ?」
「小さい頃」
「お母さんは、今も覚えてる?」
「聞いてみる」
「うん」
リナが立ち上がる。
そのとき。
ランタンが光った。
今までよりも強く。
エイルが振り返る。
村の向こう。
夕暮れの礼拝堂。
その屋根の上に――
青い光が一つ、浮かんでいる。
「……あれは?」
リナが呟く。
エイルは立ち上がった。
「分からない」
「また?」
「今度は……」
ランタンを握り締める。
「確かめたほうがいい」
⸻
夜。
リーネ村の人々が眠りについた頃。
誰もいない礼拝堂の地下で、一つの扉が開いた。
その向こうには、古い石の階段。
階段の壁には、無数の名前が刻まれている。
その一つ。
――エイル。
その名前の隣には、別の名前があった。
けれど、その名前だけは誰かに削り取られていた。
そして扉の奥から、声が響く。
『……まだ、思い出してはいけない』
青い灯火が揺れる。
『あの子が、まだ生きているから』
静かに扉が閉じた。
誰にも知られないまま。
礼拝堂から戻った頃には、昼を少し過ぎていた。
村は何事もなかったかのように、いつもの日常を取り戻している。
畑を耕す人。
井戸で水を汲む人。
軒先で洗濯物を干す人。
誰も、鐘の音について話さない。
エイルは宿屋の前で足を止めた。
「……誰も気にしてない」
隣にいたリナが首を傾げる。
「何を?」
「さっきの鐘」
「ああ……」
リナは少し考えた。
「鳴ったことを忘れてるのかも」
「そうかもしれない」
エイルはランタンを見る。
青い光は、すっかり元の明るさに戻っている。
「でも、どうして?」
「分からない」
「エイルにも?」
「僕は何でも知ってるように見える?」
リナはエイルの顔をじっと見た。
「ううん」
「即答なんだ」
「だって、昨日からずっと『分からない』って言ってるもん」
「……確かに」
エイルは少し笑った。
リナも笑った。
ほんの短い時間だった。
けれどエイルは、不思議な気持ちになった。
誰かとこうして笑うことが、ずいぶん久しぶりのような気がした。
⸻
「まず、村の人に話を聞いてみよう」
「誰に?」
「できれば年長者」
「じゃあ、村長さん」
「そうしよう」
村長の家は、村の北側にあった。
木造の小さな家。
庭には薬草が干されている。
リナが扉を叩く。
「村長さん、いる?」
「おや、リナかい」
出てきたのは、白髪の老人だった。
杖をついている。
穏やかな顔をしているが、エイルを見ると表情が少し硬くなった。
「……旅の人か」
「エイルです」
「何の用かな?」
「少し村について聞きたいことがあります」
村長は黙った。
「……どんなことを?」
「昔のことです」
その瞬間。
老人の顔から笑みが消えた。
「昔?」
「はい」
「昔の何を?」
「この村の歴史です」
長い沈黙。
やがて村長は、小さく首を振った。
「……知らんよ」
「村長さんなのに?」
リナが尋ねる。
「村長だからこそ、知らないんだ」
エイルは目を細めた。
「どういう意味ですか?」
老人は答えなかった。
代わりに、庭に干してあった薬草を一つ手に取った。
「これは何だと思う?」
「薬草……ですよね?」
「名前は?」
「……」
エイルは黙った。
「分からない?」
「はい」
「この村では誰も知らん」
老人は薬草を見つめた。
「昔からこの村にあるものなのに、名前だけが誰の記憶からも消えてしまった」
「いつからですか?」
「分からん」
「……」
「そこから先を覚えている者がいないからな」
エイルの背筋に、冷たいものが走った。
「誰かが意図的に記憶を消した?」
村長はゆっくりとエイルを見る。
「そう考えたこともある」
「でも違う?」
「分からん」
その言葉に、エイルは少しだけ苦笑した。
「僕と同じですね」
村長は笑わなかった。
「旅人」
「はい」
「君は何者だ?」
エイルは少し考えた。
「……僕も知りたいです」
老人の目がわずかに揺れた。
「そうか」
それ以上、村長は何も言わなかった。
⸻
村長の家を出ると、リナが言った。
「やっぱり変だね」
「うん」
「でも、村長さんは何か知ってる」
「たぶんね」
「聞き出せなかった」
「無理に聞く必要はないよ」
「どうして?」
「話したくないことを無理に聞いても、嘘しか返ってこないから」
リナがエイルを見る。
「……エイルって、変なところで優しいね」
「そう?」
「うん」
「初めて言われた」
「本当?」
「たぶん」
「また『たぶん』」
リナが笑う。
エイルも笑った。
そのとき。
村の中央から声が聞こえた。
「誰か来てくれ!」
二人が振り返る。
畑の方から、男が走ってくる。
「子どもが倒れた!」
⸻
倒れていたのは、七歳くらいの男の子だった。
母親が泣きながら抱きかかえている。
「急に……急に倒れて……」
エイルは少年のそばにしゃがんだ。
「少し見せてください」
「でも……」
「大丈夫です」
エイルは少年の額に手を当てる。
熱はない。
呼吸も正常。
なのに、意識だけがない。
「……眠ってる?」
リナが聞く。
「違う」
エイルは少年の胸元を見る。
そこに、小さな水色の光が浮かんでいた。
「……これは」
エイルのランタンが反応する。
少年の中にある何かと共鳴している。
エイルは目を閉じた。
魔力を流す。
すると――
少年の記憶が流れ込んできた。
母親の笑顔。
父親と遊んだ記憶。
川で魚を捕った日。
誕生日。
友達。
そして――
誰かと一緒に、礼拝堂へ入る姿。
エイルの目が開いた。
「……礼拝堂?」
その瞬間。
少年が目を覚ました。
「……お母さん?」
母親が泣きながら抱きしめる。
「よかった……!」
少年は困った顔をする。
「どうしたの?」
「あなた、急に倒れたのよ」
「……?」
少年は首を傾げた。
「僕、何してたの?」
エイルは答えなかった。
ただ、少年の記憶の中にあった一つの場面が気になっていた。
礼拝堂。
そして――
誰かに手を引かれている少年。
その人物の顔だけが、黒く塗りつぶされていた。
⸻
夕方。
エイルとリナは川辺にいた。
リナは石を拾って、水面へ投げる。
ぽちゃん。
「ねえ」
「なに?」
「エイルは、怖くないの?」
「何が?」
「自分の記憶」
エイルは黙った。
「怖いよ」
「そうなの?」
「うん」
「そうは見えない」
「よく言われる」
リナは水面を見つめる。
「じゃあ、なんで探すの?」
エイルはランタンを見る。
「……分からない」
「また?」
「うん」
少し間を置いてから、エイルは続けた。
「でも、忘れているものがあるなら……それはきっと、僕が忘れてはいけなかったものだと思う」
「大切なもの?」
「たぶん」
「誰か?」
エイルは答えなかった。
胸元のペンダントを握る。
「……そうかもしれない」
そのとき。
リナが突然、エイルの顔を見た。
「ねえ」
「うん?」
「私、お母さんの声を思い出した」
エイルが振り返る。
「本当に?」
「うん」
「どんな声?」
リナは嬉しそうに笑った。
「優しい声」
それだけ言って、しばらく黙った。
そして――
「でも、もう一つ思い出した」
「何を?」
リナの表情が変わった。
「お母さんが、私に言ってた」
「……何て?」
「『青い灯りを持った人には、ついていっちゃいけない』って」
エイルの顔から、笑みが消えた。
風が止まる。
川の音だけが聞こえる。
「……いつ?」
「小さい頃」
「お母さんは、今も覚えてる?」
「聞いてみる」
「うん」
リナが立ち上がる。
そのとき。
ランタンが光った。
今までよりも強く。
エイルが振り返る。
村の向こう。
夕暮れの礼拝堂。
その屋根の上に――
青い光が一つ、浮かんでいる。
「……あれは?」
リナが呟く。
エイルは立ち上がった。
「分からない」
「また?」
「今度は……」
ランタンを握り締める。
「確かめたほうがいい」
⸻
夜。
リーネ村の人々が眠りについた頃。
誰もいない礼拝堂の地下で、一つの扉が開いた。
その向こうには、古い石の階段。
階段の壁には、無数の名前が刻まれている。
その一つ。
――エイル。
その名前の隣には、別の名前があった。
けれど、その名前だけは誰かに削り取られていた。
そして扉の奥から、声が響く。
『……まだ、思い出してはいけない』
青い灯火が揺れる。
『あの子が、まだ生きているから』
静かに扉が閉じた。
誰にも知られないまま。