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第五章 写真の中の少年


朝の光が、リーネ村を包んでいた。

昨夜の出来事など、何もなかったかのように。

鳥が鳴いている。

畑では人々が働いている。

井戸では笑い声が聞こえる。

けれど、エイルには少しだけ違って見えた。

昨日まで知らなかった村なのに。

どこか懐かしい。

道の形も。

石畳の傷も。

古い礼拝堂の屋根も。

すべてが、遠い記憶の中にあるような気がする。

「……変なの」

エイルは呟いた。

「何が?」

隣を歩いていたリナが聞く。

「この村」

「やっぱり?」

「うん」

エイルは立ち止まった。

「昨日までは知らない場所だったはずなのに」

「今は?」

「……帰ってきたみたいな感じがする」

リナは少し考えた。

「じゃあ、ここはエイルの家だったのかな」

「分からない」

「またそれ?」

「仕方ないよ」

「でも、少しずつ思い出してる」

エイルは自分の手を見る。

「……そうだね」

そのとき。

「エイル」

村長の声がした。

振り返る。

老人が一人で立っている。

「少し、話をしないか」



村長の家。

昨日と同じ部屋だった。

けれど今日は、テーブルの上に一冊の古い箱が置かれている。

「これは?」

「写真だ」

村長が箱を開ける。

中には、何枚もの古い写真が入っていた。

エイルは一枚を手に取った。

村の風景。

祭り。

畑。

礼拝堂。

どれも古いものだ。

「この村では、写真を残す習慣があったんですね」

「昔はな」

「今は?」

「誰も撮らなくなった」

「……なぜ?」

「忘れてしまったからだ」

エイルは写真を見る。

写真を撮るという行為そのものを、村人が忘れている。

記憶だけではない。

文化まで失われている。

「これを見てほしい」

村長が一枚の写真を差し出した。

エイルの手が止まった。

そこには二人の子どもが写っていた。

一人は――

銀白色の髪。

淡い青緑色の瞳。

白い服。

今より少し幼い。

けれど間違いなく、エイルだった。

そして隣には――

あの少女。

白い髪。

青い瞳。

笑っている。

二人は肩を寄せている。

まるで昔からの友人のように。

「……僕」

声が震えた。

「そうだ」

村長が言う。

「君だ」

「何年前の写真ですか?」

「八十七年前だ」

エイルは顔を上げた。

「……八十七?」

「ああ」

「僕は……」

村長は答えない。

「この写真の頃から、僕はこの姿だった?」

「そうだ」

「じゃあ……僕は人間じゃない?」

老人はしばらく黙った。

そして、静かに言った。

「君は人間と同じ時間を生きる存在ではない」

エイルは写真を見つめた。

「精霊……?」

「半分はな」

「半分?」

「君の母親は人間だった」

エイルの目が大きくなる。

「父親は?」

「……」

村長が沈黙する。

「言えない?」

「知らない」

「本当に?」

「私が知っているのは、君がこの村に来たときのことだけだ」

エイルは眉を寄せる。

「僕が?」

「ああ」

老人は遠い昔を見るような目をした。

「君は一人だった」

「一人?」

「森の中で倒れていた」

「どうして?」

「分からん」

「何も覚えていなかった?」

「いや」

村長は首を振った。

「君は、すべて覚えていた」

「……え?」

「自分の名前も」

「……」

「自分が何者なのかも」

「……僕が?」

「だが、君はそれを誰にも話さなかった」

エイルは写真を握る。

「じゃあ、あの子は?」

村長の表情が変わる。

「……彼女は?」

老人は長い沈黙のあと、答えた。

「この村の守り人だった」

「守り人?」

「あの白い樹を守る一族だ」

「じゃあ、あの樹は……」

「世界樹の一部だ」

エイルは息を呑む。

「世界樹?」

「ああ」

「でも、あんな樹……」

「今はない」

「……なぜ?」

村長は窓の外を見る。

「黒い霧が来たからだ」



黒い霧。

その言葉を聞いた瞬間。

エイルの頭の中に、また映像が浮かんだ。

炎。

叫び声。

逃げる人々。

崩れる建物。

白い樹。

そして――

少女。

彼女がエイルの手を握っている。

『行って』

「嫌だ」

『早く』

「一緒に行こう」

『私はここに残らないと』

「どうして?」

少女は泣いていた。

『約束したから』

「誰と?」

『世界と』

映像が消える。

エイルは椅子に手をついた。

「……っ」

リナが心配そうに近づく。

「大丈夫?」

「……うん」

「また思い出した?」

エイルはゆっくり頷いた。

「少しだけ」

村長は目を伏せた。

「君は、あの日のことを忘れている」

「なぜ?」

「彼女がそうしたからだ」

エイルが顔を上げる。

「……あの子が?」

「ああ」

「どうして?」

「君を守るためだ」

エイルは理解できなかった。

「僕を……?」

「黒い霧が村を覆った夜」

村長は静かに語り始めた。

「彼女は白い樹の力を使った」

「そして、君を村の外へ逃がした」

「その代わりに――」

老人は言葉を止める。

「彼女は何をしたんですか?」

「村に残ったすべての人間から、その日の記憶を奪った」

エイルの顔が強張る。

「……全部?」

「彼女自身のことも含めて」

「だから村人たちは……」

「彼女を忘れた」

リナが呟いた。

「お母さんの声も……?」

村長は頷いた。

「記憶を奪う魔法は完璧ではなかった」

「だから、声や匂い、場所の感覚だけが残ることがある」

エイルは目を閉じた。

昨夜聞いた声。

『私を』

胸が締め付けられる。

「……じゃあ、あの子は?」

村長は答えなかった。

エイルが立ち上がる。

「どこにいるんですか?」

「……」

「村長」

「分からない」

「嘘です」

初めてだった。

エイルの声が強くなった。

「あなたは知っている」

老人はしばらくエイルを見つめた。

そして。

「地下だ」

「……」

「礼拝堂の地下」

「まだ生きている?」

村長は答えなかった。

その沈黙が、答えだった。



家を出たあと。

エイルはしばらく歩かなかった。

リナも何も言わない。

やがてエイルが口を開く。

「……僕は、あの子を助けられなかった」

「まだ分からないよ」

「でも」

「エイル」

リナが遮った。

「写真を見て」

エイルが見る。

「この二人、楽しそう」

「……うん」

「だったら、きっと今も待ってるよ」

「どうしてそう思うの?」

リナは少し考えてから笑った。

「だって、エイルのランタンが連れてきたんでしょ?」

エイルはランタンを見る。

青い光。

静かに揺れている。

「……そうだね」

「じゃあ、行こう」

「うん」

エイルは笑った。

今度の笑顔には、少しだけ決意があった。



その夜。

二人は再び礼拝堂へ向かった。

地下へ降りる。

昨日よりも早く、石の扉の前へ辿り着いた。

エイルが手を伸ばす。

扉は開いた。

その先には――

長い廊下。

壁には無数の青い灯火。

一つ。

また一つ。

二人の進む方向を照らしていく。

「……道を作ってる」

リナが言った。

「うん」

「誰が?」

エイルは答えなかった。

廊下の奥から、声がする。

『エイル』

今度はすぐ近く。

「……今度こそ」

エイルは歩き出した。

「会いに行こう」

一歩。

また一歩。

青い灯火が二人を導く。

そして廊下の最後。

大きな扉の前に立つ。

その扉には、古い文字が刻まれていた。

――《夢を見る者だけが、ここを開くことができる》

リナが首を傾げる。

「どういう意味?」

エイルは扉を見る。

そして、なぜか理解していた。

「たぶん……」

胸元のペンダントを握る。

「僕が眠ればいい」

「え?」

エイルは目を閉じた。

「夢の中で、扉を開くんだ」

ランタンの青い光が強くなる。

エイルの意識が、ゆっくりと遠ざかっていく。

最後に聞こえたのは――

あの少女の声だった。

『おかえり、エイル』

そして少年は、

八十七年前の夢の中へ落ちていった。