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第21章「影を持たない父」


 黒い影が、ゆっくりと伸びていく。

 男性の足元から。

 まるで生き物のように。

 エイルは一歩後ろへ下がった。

「……父さん」

 男性は答えない。

 ただ、目を閉じている。

「どうして影がないの?」

 リナが小さく尋ねた。

 男性はしばらく黙っていた。

 やがて。

「私は、ここにいるわけではないからだ」

「……?」

「正確には――」

 男性が自分の手を見る。

 指先が、少し透けていた。

「私の記憶が、ここに残っている」

 エイルの表情が変わる。

「記憶……?」

「そう」

「じゃあ、本物の父さんは?」

 男性は答えなかった。

 その沈黙だけで。

 エイルには分かってしまった。

「……もう、いないの?」

「エイル」

「答えて」

 男性は目を伏せた。

「私の身体は、とうの昔に消えた」

 エイルの胸が締めつけられる。

「じゃあ、ここにいるあなたは……」

「君が会いたかった父親の記憶だ」

 エイルは拳を握った。

「……遅いよ」

「……」

「ずっと探してた」

 声が震える。

「どこにいるのかも分からなかった」

「生きてるのかも分からなかった」

「なのに……」

 涙が頬を伝う。

「会えたと思ったら、記憶だなんて」

 男性は何も言わなかった。

 ただ。

 エイルを見つめていた。

 その目は。

 どこまでも優しかった。

「……ごめん」

 その一言で。

 エイルは顔を上げた。

「父さん……」

「本当は、もっと早く会うべきだった」

「じゃあ、どうして?」

「会えば、君は思い出してしまうから」

「何を?」

「自分が何者なのかを」

 男性は塔の奥を見る。

「そして、それは君が生きることを難しくする」

「……」

「だから、セレネに頼んだ」

 エイルの目が揺れる。

「俺を忘れさせるように?」

「そうだ」

「母さんも?」

「……」

「みんなで俺を何も知らない人間にした」

 男性は首を横に振る。

「違う」

「何が違うの?」

「君を、何も知らない人間にしたんじゃない」

 男性は静かに言った。

「君自身が選べるようにしたんだ。」

 エイルは黙った。

「もし君が、生まれたときから自分の役割を知っていたら」

 男性の声が少しずつ遠くなる。

「君は、自分の人生を選べなかった」

「世界を守るために生まれた」

「白い樹を守るために生まれた」

「三つの灯りを受け継ぐために生まれた」

「そんな言葉を聞かされ続けたら――」

 男性は微笑んだ。

「君は、ただのエイルではいられなくなる」

 エイルは何も言えなかった。

 胸の中に。

 今までの旅が浮かんでくる。

 リナと歩いた道。

 村で笑った時間。

 セレネとの記憶。

 何も知らないまま過ごした年月。

 そして。

 今ここにいる自分。

「……じゃあ」

 エイルが呟く。

「俺がエイルとして生きてきた時間は……」

「君自身の人生だ」

 父親は即答した。

「誰にも与えられたものではない」

「……」

「だから、奪われたと思わなくていい」

 エイルは俯いた。

 涙が落ちる。

「……ずるいな」

「何が?」

「そんなこと言われたら……」

 エイルは涙を拭う。

「怒れなくなる」

 父親が初めて笑った。

「それは、君の母親にもよく言われたよ」

「母さん……」

「君に似ていた」

「俺が?」

「ああ」

 父親は少し考える。

「ただ、君より頑固だった」

「……それは褒めてる?」

「たぶん」

 リナが思わず吹き出した。

「ふふっ」

 エイルも少し笑う。

 ほんの短い時間だった。

 けれど。

 その時間だけは。

 まるで本当に家族でいるようだった。



 突然。

 塔が大きく揺れた。

 ――ゴォン。

 白い壁に黒い亀裂が走る。

 父親の表情が変わった。

「もう時間がない」

「何が起きてる?」

「霧が塔へ入ろうとしている」

「じゃあ、急がないと」

 エイルが階段へ向かおうとする。

「待て」

 父親が止める。

「最上階へ行く前に、泉へ戻れ」

「どうして?」

「三つの灯りを、もう一度揃える必要がある」

 エイルは自分の手を見る。

 二つの灯り。

 青と白。

 けれど。

 もう一つの青い灯りは、村へ分かれている。

「一つは村にある」

「そうだ」

「取り戻すの?」

「違う」

 父親が首を横に振る。

「取り戻してはいけない」

「……え?」

「お前が一人で持つ灯りではなくなった」

 父親は穏やかに言った。

「村の人々が受け取った灯りは、彼ら自身のものだ」

「じゃあ、どうやって三つ揃えるの?」

「一つは君」

「一つはセレネ」

「そして最後の一つは――」

 父親がリナを見る。

 リナが驚く。

「……私?」

「そう」

「どうして?」

「君は、エイルと出会ったから」

 リナは首を傾げる。

「それだけ?」

「それで十分だ」

 父親は微笑む。

「灯りは、誰かが誰かを選んだときに生まれる」

 エイルがリナを見る。

「俺を……選んだ?」

「うん」

 リナは少し照れたように笑った。

「一緒に行くって決めたから」

「……」

 エイルの胸の奥で。

 白い灯りが、柔らかく輝いた。



 そのとき。

「エイル!」

 遠くから声が響いた。

 セレネだった。

 けれど。

 声が明らかに苦しそうだった。

「セレネ?」

 塔の奥。

 黒い霧が階段を下から上がってきている。

 その中心に。

 セレネの姿があった。

「……急いで」

 彼女が叫ぶ。

「白い樹が……もう持たない!」

 父親が目を閉じる。

「やはり始まったか」

「何が?」

 エイルが問う。

 父親は答える。

「霧の侵食だ。白い樹をなくそうとしている」

「白い樹がなくなったら?」

「この世界に残されている記憶を、支えるものがなくなる」

 リナが青ざめる。

「じゃあ、村の人たちも……」

「すべて忘れる」

 エイルは拳を握った。

「……行こう」

 父親を見る。

「泉へ戻る」

「それから?」

「三つの灯りを揃える」

「そして?」

 エイルは一瞬だけ迷った。

「……セレネを助ける」

 セレネが目を見開く。

「エイル――」

「今度は」

 エイルは微笑む。

「俺が自分で決める」

 父親も微笑んだ。

「それでいい」

 男性の身体が、さらに透けていく。

「父さん!」

「大丈夫だ」

「待って」

「もう時間だ」

 エイルが手を伸ばす。

 けれど。

 父親はその手を握らなかった。

 代わりに。

 遠くから、静かに頭を下げた。

「エイル」

「……うん」

「生まれてきてくれて、ありがとう」

 その言葉を最後に。

 父親の姿は白い光になって消えた。

 床には何も残らなかった。

 ただ。

 一枚の白い葉だけが落ちていた。

 エイルはそれを拾う。

 そして。

 胸元のペンダントに重ねた。

「……父さん」

 小さく呟く。

「俺、もう少しだけ生きてみるよ」

 リナが隣に立つ。

「うん」

「意味があるかは、まだ分からないけど」

「それでいいよ」

「……うん」

 二人は階段を駆け下りる。

 その先には。

 黒い霧に包まれた森。

 そして――

 白い樹の根元で、一人立ち尽くすセレネ。

 彼女の身体は。

 もう半分以上が、光になっていた。

「……セレネ!」

 エイルが叫ぶ。

 セレネが振り返る。

「エイル……」

 その瞳に。

 ほんの少しだけ、安堵の色が浮かんだ。

「お願い」

 セレネが言う。

「今度は――」

 黒い霧が、白い樹を覆っていく。

「私を忘れないで。」

 エイルは走った。

 そして。

 白い樹の根元で。

 二人の手が、ようやく重なった。