第22章「約束の灯り」
二人の手が重なった。
その瞬間。
エイルの胸の奥で、何かが弾けた。
青い光が溢れる。
セレネの身体からも、淡い光がこぼれた。
「……温かい」
エイルが呟く。
「うん」
セレネが笑う。
「ずっと、こうしたかった」
「じゃあ……」
エイルは手を強く握る。
「もう離さない」
セレネは少し困ったように笑った。
「それは、約束できないよ」
「……どうして?」
「私は、もうこの世界に長くいられないから」
その言葉を聞いた瞬間。
エイルの手に力が入る。
「嫌だ」
「エイル」
「また一人になるのは嫌だ」
「……」
「俺はもう、忘れたくない」
セレネは何も言わなかった。
ただ。
繋いだ手を、そっと握り返した。
「だったら」
彼女は言う。
「忘れないで」
「うん」
「私がいなくなっても」
「うん」
「私と過ごした時間を」
「……うん」
エイルは涙を拭う。
「絶対に」
「それなら大丈夫」
セレネが微笑む。
「私も、もう怖くない」
⸻
だが。
その直後。
白い樹が大きく揺れた。
――ゴォォォン。
幹の黒い部分から、霧が一気に吹き出す。
「セレネ!」
「離れて!」
セレネがエイルを押し退ける。
黒い霧が二人の間を走り抜ける。
地面が黒く染まった。
「……まだ、こんなに……」
セレネが息を切らす。
エイルは霧を見る。
そこには無数の顔が浮かんでいた。
泣いている。
叫んでいる。
笑っている。
そして。
その中には――
リーネ村の人々の顔もあった。
「村の人たち……」
リナが駆け寄る。
「まだ霧の中にいる!」
「……うん」
エイルは三つの灯りを見る。
青。
青。
白。
今度は。
三つとも揃っている。
けれど。
それぞれが別々の場所にあるように感じた。
一つはエイル。
一つはセレネ。
そして。
一つはリナ。
「……そういうことか」
エイルが呟く。
「何が?」
リナが尋ねる。
「三つの灯りは、同じ場所に集める必要なんてなかったんだ」
「え?」
「それぞれが、誰かの中にある」
エイルは自分の灯りを見る。
「記憶」
セレネを見る。
「夢」
そしてリナを見る。
「命」
リナが目を丸くする。
「私が、命?」
「うん」
エイルは笑う。
「だって、リナはいつも前を向いてる」
「そんなこと……」
「俺にはそう見える」
セレネも微笑んだ。
「きっと、それでいい」
⸻
エイルは黒い霧へ向き直った。
「聞いて」
霧が蠢く。
「俺たちは、お前を消さない」
霧の動きが止まる。
「忘れられたものを、なかったことにもしない」
青い灯りが強くなる。
「でも――」
セレネが一歩前へ出る。
「ここに閉じ込めることもしない」
白い樹の葉が揺れる。
リナが手を伸ばす。
「私たちが覚える」
小さな光が生まれる。
「みんなで覚える」
村から。
森から。
泉から。
無数の光が集まってくる。
名前。
歌。
約束。
笑顔。
悲しみ。
失われた日々。
それらすべてが、光になっていく。
黒い霧の中から。
一つ。
また一つ。
顔が消えていく。
消滅したのではない。
光になって。
それぞれの場所へ帰っていく。
村へ。
森へ。
泉へ。
そして――
白い樹へ。
「……ありがとう」
どこからともなく。
声が聞こえた。
老人の声。
少女の声。
子どもの声。
たくさんの声。
「ありがとう」
黒い霧が薄くなっていく。
けれど。
その中心だけは。
まだ黒いままだった。
「……エイル」
セレネが呟く。
「あそこ」
霧の中心に。
一人の少年が立っている。
黒い髪。
灰色の瞳。
あの少年だった。
「君は……」
エイルが近づく。
「まだ残ってたんだね」
少年は笑う。
「うん」
「君の名前は?」
「……」
少年は答えない。
代わりに。
エイルの胸元を指差した。
「君は、もう思い出した?」
「何を?」
「自分の、本当の名前」
エイルは黙った。
確かに。
まだ思い出していない。
いや。
正確には――
思い出すことを恐れている。
「……怖いんだ」
少年が言う。
「名前を思い出したら、今の自分が消えると思ってる」
「……」
「でも、違う」
少年は微笑む。
「名前は、君を決めるものじゃない」
「……じゃあ、何?」
「君が歩いてきた場所を、覚えておくためのもの」
エイルはその言葉を聞いて。
静かに目を閉じた。
母。
父。
セレネ。
リナ。
リーネ村。
そして。
何も知らなかった頃の自分。
全部。
全部が、自分の中にある。
「……分かった」
エイルが目を開く。
「俺は――」
その瞬間。
黒い霧の中心で。
少年が微笑んだ。
「うん」
エイルは自分の胸に手を当てる。
「俺は、エイル」
青い光が広がる。
「それでいい」
少年の身体が光へ変わっていく。
最後に。
少年はエイルへ問いかけた。
「じゃあ――」
「これから、何をする?」
エイルは少し考えた。
そして。
「帰る」
「どこへ?」
「リーネ村へ」
少年が笑う。
「それから?」
「……」
エイルはセレネを見る。
セレネは静かに笑っていた。
「また、考える」
その答えに。
少年は満足そうに頷いた。
「それがいい」
光が消える。
黒い霧も。
少しずつ薄れていく。
そして――
白い樹に。
最後の黒い染みが消えた。
⸻
森に、朝が来た。
久しぶりの朝だった。
鳥が鳴く。
風が吹く。
白い花が揺れる。
エイルは空を見上げた。
「……朝だ」
リナが笑う。
「うん」
セレネは白い樹の下に立っている。
けれど。
彼女の身体は、もうほとんど光になっていた。
「……セレネ」
「うん」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「俺、戻ってくる」
「うん」
「何度でも」
セレネは微笑む。
「待ってる」
エイルは歩き出した。
何度も振り返る。
そのたびに。
セレネは手を振っていた。
そして。
森を抜ける直前。
エイルが最後に振り返ると――
白い樹の下には。
もう誰もいなかった。
ただ。
一本の白い花が咲いていた。
その花の中央には。
小さな青い光。
エイルは胸元のペンダントを握る。
「……忘れないよ」
風が吹いた。
花が揺れる。
まるで。
「知ってる」
と答えるように。
そして二人は。
リーネ村へ向かって歩き始めた。
けれど。
その旅の先にあるものを。
まだ、エイルたちは知らない。
白い塔の最上階。
誰もいない部屋で。
一枚の古い壁画が、静かに光っていた。
そこには――
三つの灯りを持つエイル。
セレネ。
そして。
もう一人の人物。
その人物の顔だけが。
まだ、描かれていなかった。
壁画の下には。
新しい文字が浮かび上がる。
――第一の旅、終わり。
――第二の記憶、目覚める。
二人の手が重なった。
その瞬間。
エイルの胸の奥で、何かが弾けた。
青い光が溢れる。
セレネの身体からも、淡い光がこぼれた。
「……温かい」
エイルが呟く。
「うん」
セレネが笑う。
「ずっと、こうしたかった」
「じゃあ……」
エイルは手を強く握る。
「もう離さない」
セレネは少し困ったように笑った。
「それは、約束できないよ」
「……どうして?」
「私は、もうこの世界に長くいられないから」
その言葉を聞いた瞬間。
エイルの手に力が入る。
「嫌だ」
「エイル」
「また一人になるのは嫌だ」
「……」
「俺はもう、忘れたくない」
セレネは何も言わなかった。
ただ。
繋いだ手を、そっと握り返した。
「だったら」
彼女は言う。
「忘れないで」
「うん」
「私がいなくなっても」
「うん」
「私と過ごした時間を」
「……うん」
エイルは涙を拭う。
「絶対に」
「それなら大丈夫」
セレネが微笑む。
「私も、もう怖くない」
⸻
だが。
その直後。
白い樹が大きく揺れた。
――ゴォォォン。
幹の黒い部分から、霧が一気に吹き出す。
「セレネ!」
「離れて!」
セレネがエイルを押し退ける。
黒い霧が二人の間を走り抜ける。
地面が黒く染まった。
「……まだ、こんなに……」
セレネが息を切らす。
エイルは霧を見る。
そこには無数の顔が浮かんでいた。
泣いている。
叫んでいる。
笑っている。
そして。
その中には――
リーネ村の人々の顔もあった。
「村の人たち……」
リナが駆け寄る。
「まだ霧の中にいる!」
「……うん」
エイルは三つの灯りを見る。
青。
青。
白。
今度は。
三つとも揃っている。
けれど。
それぞれが別々の場所にあるように感じた。
一つはエイル。
一つはセレネ。
そして。
一つはリナ。
「……そういうことか」
エイルが呟く。
「何が?」
リナが尋ねる。
「三つの灯りは、同じ場所に集める必要なんてなかったんだ」
「え?」
「それぞれが、誰かの中にある」
エイルは自分の灯りを見る。
「記憶」
セレネを見る。
「夢」
そしてリナを見る。
「命」
リナが目を丸くする。
「私が、命?」
「うん」
エイルは笑う。
「だって、リナはいつも前を向いてる」
「そんなこと……」
「俺にはそう見える」
セレネも微笑んだ。
「きっと、それでいい」
⸻
エイルは黒い霧へ向き直った。
「聞いて」
霧が蠢く。
「俺たちは、お前を消さない」
霧の動きが止まる。
「忘れられたものを、なかったことにもしない」
青い灯りが強くなる。
「でも――」
セレネが一歩前へ出る。
「ここに閉じ込めることもしない」
白い樹の葉が揺れる。
リナが手を伸ばす。
「私たちが覚える」
小さな光が生まれる。
「みんなで覚える」
村から。
森から。
泉から。
無数の光が集まってくる。
名前。
歌。
約束。
笑顔。
悲しみ。
失われた日々。
それらすべてが、光になっていく。
黒い霧の中から。
一つ。
また一つ。
顔が消えていく。
消滅したのではない。
光になって。
それぞれの場所へ帰っていく。
村へ。
森へ。
泉へ。
そして――
白い樹へ。
「……ありがとう」
どこからともなく。
声が聞こえた。
老人の声。
少女の声。
子どもの声。
たくさんの声。
「ありがとう」
黒い霧が薄くなっていく。
けれど。
その中心だけは。
まだ黒いままだった。
「……エイル」
セレネが呟く。
「あそこ」
霧の中心に。
一人の少年が立っている。
黒い髪。
灰色の瞳。
あの少年だった。
「君は……」
エイルが近づく。
「まだ残ってたんだね」
少年は笑う。
「うん」
「君の名前は?」
「……」
少年は答えない。
代わりに。
エイルの胸元を指差した。
「君は、もう思い出した?」
「何を?」
「自分の、本当の名前」
エイルは黙った。
確かに。
まだ思い出していない。
いや。
正確には――
思い出すことを恐れている。
「……怖いんだ」
少年が言う。
「名前を思い出したら、今の自分が消えると思ってる」
「……」
「でも、違う」
少年は微笑む。
「名前は、君を決めるものじゃない」
「……じゃあ、何?」
「君が歩いてきた場所を、覚えておくためのもの」
エイルはその言葉を聞いて。
静かに目を閉じた。
母。
父。
セレネ。
リナ。
リーネ村。
そして。
何も知らなかった頃の自分。
全部。
全部が、自分の中にある。
「……分かった」
エイルが目を開く。
「俺は――」
その瞬間。
黒い霧の中心で。
少年が微笑んだ。
「うん」
エイルは自分の胸に手を当てる。
「俺は、エイル」
青い光が広がる。
「それでいい」
少年の身体が光へ変わっていく。
最後に。
少年はエイルへ問いかけた。
「じゃあ――」
「これから、何をする?」
エイルは少し考えた。
そして。
「帰る」
「どこへ?」
「リーネ村へ」
少年が笑う。
「それから?」
「……」
エイルはセレネを見る。
セレネは静かに笑っていた。
「また、考える」
その答えに。
少年は満足そうに頷いた。
「それがいい」
光が消える。
黒い霧も。
少しずつ薄れていく。
そして――
白い樹に。
最後の黒い染みが消えた。
⸻
森に、朝が来た。
久しぶりの朝だった。
鳥が鳴く。
風が吹く。
白い花が揺れる。
エイルは空を見上げた。
「……朝だ」
リナが笑う。
「うん」
セレネは白い樹の下に立っている。
けれど。
彼女の身体は、もうほとんど光になっていた。
「……セレネ」
「うん」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「俺、戻ってくる」
「うん」
「何度でも」
セレネは微笑む。
「待ってる」
エイルは歩き出した。
何度も振り返る。
そのたびに。
セレネは手を振っていた。
そして。
森を抜ける直前。
エイルが最後に振り返ると――
白い樹の下には。
もう誰もいなかった。
ただ。
一本の白い花が咲いていた。
その花の中央には。
小さな青い光。
エイルは胸元のペンダントを握る。
「……忘れないよ」
風が吹いた。
花が揺れる。
まるで。
「知ってる」
と答えるように。
そして二人は。
リーネ村へ向かって歩き始めた。
けれど。
その旅の先にあるものを。
まだ、エイルたちは知らない。
白い塔の最上階。
誰もいない部屋で。
一枚の古い壁画が、静かに光っていた。
そこには――
三つの灯りを持つエイル。
セレネ。
そして。
もう一人の人物。
その人物の顔だけが。
まだ、描かれていなかった。
壁画の下には。
新しい文字が浮かび上がる。
――第一の旅、終わり。
――第二の記憶、目覚める。