第20章「白い塔へ」
村を出てから、三日が過ぎた。
エイルとリナは、森の奥へ向かって歩いていた。
道は次第に険しくなった。
けれど、不思議なことに。
二人が歩く場所には、必ず白い花が咲いた。
まるで、誰かが先に道を作っているようだった。
「……ねえ」
リナが白い花を見下ろす。
「この花、ずっと咲いてるね」
「うん」
「季節とか関係ないのかな」
「たぶん」
エイルは花びらに触れた。
すると。
ほんの一瞬だけ。
誰かの声が聞こえた。
『……まだ、覚えてる?』
エイルは顔を上げる。
「今、聞こえた?」
「何が?」
「……いや」
エイルは首を振った。
「何でもない」
けれど。
胸の奥には、確かに残っていた。
誰かが呼んでいる。
自分を。
ずっと昔から。
⸻
夜。
二人は森の中で小さな火を囲んでいた。
エイルの三つの灯りが、焚き火とは違う柔らかな光を放っている。
「エイル」
「なに?」
「聞いてもいい?」
「うん」
「お父さんのこと」
エイルは少し黙った。
「……いいよ」
「どんな人だった?」
「分からない」
「じゃあ、何を覚えてる?」
「顔」
「それだけ?」
「うん」
エイルは炎を見る。
「でも……」
「でも?」
「俺を抱いてた」
リナが微笑む。
「それなら、優しい人だったのかもね」
「そうかな」
「だって、エイルが覚えてるのがそれなんだから」
エイルは少し考える。
「……そうかもしれない」
しばらく二人は黙っていた。
森の夜は静かだった。
以前なら、その静けさが怖かったかもしれない。
けれど今は。
リナが隣にいる。
それだけで、少し安心できた。
「ねえ、リナ」
「なに?」
「もし……」
エイルは言葉を探す。
「俺が、俺じゃなくなったらどうする?」
「どういう意味?」
「昔の名前を思い出したら」
「うん」
「父さんのことを全部思い出したら」
「うん」
「セレネのことを全部思い出して……」
一度、言葉を止める。
「今の俺が消えたら」
リナは少し考えた。
そして。
「呼ぶよ」
「……名前を?」
「うん」
「どの名前?」
「エイル」
即答だった。
「今のエイルを」
エイルは少し笑った。
「……そっか」
「それでも戻ってこなかったら?」
「何度でも呼ぶ」
「……何度でも?」
「うん」
「大変だよ」
「大変でもやる」
リナは焚き火を見つめる。
「だって、私がエイルを忘れないって決めたから」
エイルは何も言えなかった。
ただ。
胸元の白い灯りが、少しだけ明るくなった。
⸻
翌朝。
二人は再び歩き始めた。
昼を過ぎた頃。
森が突然、途切れた。
「……わあ」
リナが立ち止まる。
その先には。
巨大な谷が広がっていた。
谷の向こう。
雲の上まで伸びるように――
白い塔が立っている。
細く。
高く。
空に溶けるほど白い塔。
その周囲には、無数の青い光が浮かんでいた。
エイルは言葉を失った。
「……これが」
夢で見た塔。
「俺が生まれるより前からあった場所」
「うん」
リナが頷く。
「たぶん」
塔へ向かうには。
谷を渡らなければならない。
だが。
橋はない。
エイルが困っていると。
足元の白い花が一輪。
ふわりと浮かび上がった。
その花が光になる。
光が一本。
また一本。
谷の上に並んでいく。
やがて。
白い光の橋ができた。
「……行けるよ」
リナが言う。
「うん」
二人は橋を渡った。
⸻
塔の入り口には。
扉がなかった。
ただ、大きな壁に一つだけ文字が刻まれている。
――ここには、忘れられた始まりが眠る。
エイルは手を当てる。
すると。
壁が光った。
「エイル?」
「……何か来る」
壁の向こうから。
足音が聞こえた。
一歩。
二歩。
三歩。
やがて。
白い扉が現れた。
ゆっくり開く。
その奥にいたのは――
一人の男性だった。
白銀の髪。
淡い青緑色の瞳。
エイルとよく似た顔。
けれど。
エイルよりずっと大人びている。
男性は二人を見ると。
静かに微笑んだ。
「……遅かったね」
エイルの呼吸が止まる。
「あなたは……」
男性は答えない。
ただ。
エイルの胸元のペンダントを見る。
「まだ、それを持っていたんだ」
エイルの手が震える。
「……父さん?」
男性は目を細めた。
「その呼び方をするのは、初めてだね」
「……!」
リナが息を呑む。
男性はエイルを見つめる。
「ずいぶん大きくなった」
エイルは動けなかった。
目の前にいる。
ずっと探していた人。
けれど。
どこかおかしい。
男性の足元には――
影がなかった。
「……父さん」
もう一度呼ぶ。
男性は微笑む。
「そうだよ」
その声は。
確かに。
あの記憶の中で聞いた声だった。
「私は、君の父親だ」
エイルの目から涙が落ちる。
「……どうして」
「何が?」
「どうして、俺を置いていったの?」
男性は答えない。
「どうして母さんを一人にしたの?」
「……」
「どうしてセレネに俺を任せたの?」
男性の表情が少しだけ曇る。
「エイル」
「どうして――」
「それ以上は」
男性が静かに言う。
「まだ聞いてはいけない」
エイルの顔が強張る。
「……また?」
声が震えた。
「また、俺は何も知らされないの?」
男性は悲しそうにエイルを見る。
「違う」
「じゃあ教えてよ!」
塔の中に声が響く。
「俺はもう、子どもじゃない!」
男性は目を閉じた。
そして。
「……そうだね」
ゆっくりと目を開く。
「だから、今度は君自身に選んでもらう」
「何を?」
「この塔の最上階にあるものを」
「……何があるの?」
男性が答える。
「君が失った――」
その言葉に。
塔全体が震えた。
「本当の名前だ。」
エイルの三つの灯りが、一斉に消えた。
そして。
塔の奥から。
セレネの声が響いた。
「エイル、聞かないで!」
男性が振り返る。
「……セレネ」
エイルは二人を見る。
「どうして……」
セレネの声が震えている。
「どうして父さんが、ここにいるの?」
答えはなかった。
ただ。
男性の足元に――
黒い影が、ゆっくりと伸び始めていた。
村を出てから、三日が過ぎた。
エイルとリナは、森の奥へ向かって歩いていた。
道は次第に険しくなった。
けれど、不思議なことに。
二人が歩く場所には、必ず白い花が咲いた。
まるで、誰かが先に道を作っているようだった。
「……ねえ」
リナが白い花を見下ろす。
「この花、ずっと咲いてるね」
「うん」
「季節とか関係ないのかな」
「たぶん」
エイルは花びらに触れた。
すると。
ほんの一瞬だけ。
誰かの声が聞こえた。
『……まだ、覚えてる?』
エイルは顔を上げる。
「今、聞こえた?」
「何が?」
「……いや」
エイルは首を振った。
「何でもない」
けれど。
胸の奥には、確かに残っていた。
誰かが呼んでいる。
自分を。
ずっと昔から。
⸻
夜。
二人は森の中で小さな火を囲んでいた。
エイルの三つの灯りが、焚き火とは違う柔らかな光を放っている。
「エイル」
「なに?」
「聞いてもいい?」
「うん」
「お父さんのこと」
エイルは少し黙った。
「……いいよ」
「どんな人だった?」
「分からない」
「じゃあ、何を覚えてる?」
「顔」
「それだけ?」
「うん」
エイルは炎を見る。
「でも……」
「でも?」
「俺を抱いてた」
リナが微笑む。
「それなら、優しい人だったのかもね」
「そうかな」
「だって、エイルが覚えてるのがそれなんだから」
エイルは少し考える。
「……そうかもしれない」
しばらく二人は黙っていた。
森の夜は静かだった。
以前なら、その静けさが怖かったかもしれない。
けれど今は。
リナが隣にいる。
それだけで、少し安心できた。
「ねえ、リナ」
「なに?」
「もし……」
エイルは言葉を探す。
「俺が、俺じゃなくなったらどうする?」
「どういう意味?」
「昔の名前を思い出したら」
「うん」
「父さんのことを全部思い出したら」
「うん」
「セレネのことを全部思い出して……」
一度、言葉を止める。
「今の俺が消えたら」
リナは少し考えた。
そして。
「呼ぶよ」
「……名前を?」
「うん」
「どの名前?」
「エイル」
即答だった。
「今のエイルを」
エイルは少し笑った。
「……そっか」
「それでも戻ってこなかったら?」
「何度でも呼ぶ」
「……何度でも?」
「うん」
「大変だよ」
「大変でもやる」
リナは焚き火を見つめる。
「だって、私がエイルを忘れないって決めたから」
エイルは何も言えなかった。
ただ。
胸元の白い灯りが、少しだけ明るくなった。
⸻
翌朝。
二人は再び歩き始めた。
昼を過ぎた頃。
森が突然、途切れた。
「……わあ」
リナが立ち止まる。
その先には。
巨大な谷が広がっていた。
谷の向こう。
雲の上まで伸びるように――
白い塔が立っている。
細く。
高く。
空に溶けるほど白い塔。
その周囲には、無数の青い光が浮かんでいた。
エイルは言葉を失った。
「……これが」
夢で見た塔。
「俺が生まれるより前からあった場所」
「うん」
リナが頷く。
「たぶん」
塔へ向かうには。
谷を渡らなければならない。
だが。
橋はない。
エイルが困っていると。
足元の白い花が一輪。
ふわりと浮かび上がった。
その花が光になる。
光が一本。
また一本。
谷の上に並んでいく。
やがて。
白い光の橋ができた。
「……行けるよ」
リナが言う。
「うん」
二人は橋を渡った。
⸻
塔の入り口には。
扉がなかった。
ただ、大きな壁に一つだけ文字が刻まれている。
――ここには、忘れられた始まりが眠る。
エイルは手を当てる。
すると。
壁が光った。
「エイル?」
「……何か来る」
壁の向こうから。
足音が聞こえた。
一歩。
二歩。
三歩。
やがて。
白い扉が現れた。
ゆっくり開く。
その奥にいたのは――
一人の男性だった。
白銀の髪。
淡い青緑色の瞳。
エイルとよく似た顔。
けれど。
エイルよりずっと大人びている。
男性は二人を見ると。
静かに微笑んだ。
「……遅かったね」
エイルの呼吸が止まる。
「あなたは……」
男性は答えない。
ただ。
エイルの胸元のペンダントを見る。
「まだ、それを持っていたんだ」
エイルの手が震える。
「……父さん?」
男性は目を細めた。
「その呼び方をするのは、初めてだね」
「……!」
リナが息を呑む。
男性はエイルを見つめる。
「ずいぶん大きくなった」
エイルは動けなかった。
目の前にいる。
ずっと探していた人。
けれど。
どこかおかしい。
男性の足元には――
影がなかった。
「……父さん」
もう一度呼ぶ。
男性は微笑む。
「そうだよ」
その声は。
確かに。
あの記憶の中で聞いた声だった。
「私は、君の父親だ」
エイルの目から涙が落ちる。
「……どうして」
「何が?」
「どうして、俺を置いていったの?」
男性は答えない。
「どうして母さんを一人にしたの?」
「……」
「どうしてセレネに俺を任せたの?」
男性の表情が少しだけ曇る。
「エイル」
「どうして――」
「それ以上は」
男性が静かに言う。
「まだ聞いてはいけない」
エイルの顔が強張る。
「……また?」
声が震えた。
「また、俺は何も知らされないの?」
男性は悲しそうにエイルを見る。
「違う」
「じゃあ教えてよ!」
塔の中に声が響く。
「俺はもう、子どもじゃない!」
男性は目を閉じた。
そして。
「……そうだね」
ゆっくりと目を開く。
「だから、今度は君自身に選んでもらう」
「何を?」
「この塔の最上階にあるものを」
「……何があるの?」
男性が答える。
「君が失った――」
その言葉に。
塔全体が震えた。
「本当の名前だ。」
エイルの三つの灯りが、一斉に消えた。
そして。
塔の奥から。
セレネの声が響いた。
「エイル、聞かないで!」
男性が振り返る。
「……セレネ」
エイルは二人を見る。
「どうして……」
セレネの声が震えている。
「どうして父さんが、ここにいるの?」
答えはなかった。
ただ。
男性の足元に――
黒い影が、ゆっくりと伸び始めていた。