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第19章「もう一度忘れられた村」


 一つ目の灯りが消えた。

 青い光が、エイルの手の中から消えている。

 けれど――

 それ以上に恐ろしいことが起きていた。

「……お母さん」

 リナが母親の手を握る。

「私だよ」

 母親は困ったように笑った。

「ごめんなさいね」

「……」

「あなたのことを、思い出せないの」

 リナの顔から血の気が引いた。

「……そんな」

 エイルは周囲を見る。

 村人たちも同じだった。

 互いの顔を見ているのに。

 誰も。

 誰も相手の名前を思い出せない。

「村長!」

 エイルが叫ぶ。

 老人が振り返った。

「……村長?」

「あなたですよ」

「私が……?」

 老人は自分を指差す。

「そうだったかな」

 その顔に恐怖が浮かんだ。

「私は……誰だった?」

 エイルの胸が締めつけられる。

 黒い霧が戻ってきた。

 森から。

 地面から。

 家々の隙間から。

 細い糸のように、村へ入り込んでいる。

「……まだ終わってなかった」

 エイルが呟く。

 リナが振り返る。

「でも、霧は薄くなったんじゃ……」

「違う」

 エイルは黒い霧を見る。

「薄くなったんじゃない」

「……?」

「一度、引いただけだ」

 そのとき。

 村の外れから声が聞こえた。

「エイル!」

 振り返る。

 白い髪の少女が立っていた。

 セレネ――ではない。

 知らない少女。

 けれど。

 エイルは、その姿を見た瞬間に分かった。

「……あれは」

 少女の姿が、少しずつ変わる。

 白い髪が黒く。

 服が古び。

 顔がぼやけていく。

 そして最後には。

 黒い霧そのものになった。

「……幻」

 リナが呟く。

 霧の声が響いた。

『一つの記憶を取り戻せば、一つの記憶が失われる』

「……何?」

『世界は、そんなに簡単じゃない』

 黒い霧が広がる。

『忘れられたものは、戻る場所を失っている』

『だから――』

 霧が村を包み始める。

『誰かが覚えれば』

『誰かが忘れる』

 エイルは拳を握った。

「そんなこと、させない」

『どうやって?』

「……」

『すべてを覚えることなんてできない』

 霧が笑う。

『人間は忘れる生き物だから』

 エイルは答えられなかった。

 確かにそうだった。

 人は忘れる。

 どれだけ大切なことでも。

 時間が経てば薄れていく。

 声も。

 顔も。

 匂いも。

 言葉も。

 そして――

 いつか名前さえ。

「……だったら」

 リナが口を開いた。

「みんなで覚えればいい」

 エイルが振り返る。

「リナ?」

「一人で全部覚える必要なんてない」

 リナは村人たちを見る。

「私がお母さんを覚える」

 母親の手を握る。

「お母さんは、お父さんを覚えて」

 母親が戸惑う。

「私は……」

「分からなくてもいい」

 リナは笑った。

「思い出せなくても、覚えようとするだけでいい」

 村人の一人が顔を上げる。

「……覚えようとする?」

「うん」

 リナは頷く。

「忘れたことを、恥ずかしいと思わなくていい」

「もう一度、聞けばいい」

「もう一度、教えてもらえばいい」

 エイルは黙ってリナを見ていた。

 そして。

 少し笑った。

「……そういうことか」

「何?」

「三つ目の灯り」

 胸元を見る。

 白い灯りが、弱く光っている。

「命の灯りって、一人で全部を守ることじゃないんだ」

 白い光が少し強くなる。

「みんなで、繋いでいくものなんだ」

 その瞬間。

 村人の一人が口を開いた。

「……私は」

 震える声。

「昔、ここでパン屋をしていた」

 隣の老人が言う。

「私は、そのパンが好きだった」

「……本当?」

「たぶん」

 老人は笑う。

「でも、そう思う」

 別の女性が続く。

「私は昔、毎朝この広場を掃除していた気がする」

「私は、あの木の下で妻と会った」

「私は――」

 次々と。

 小さな記憶が語られていく。

 完全ではない。

 曖昧で。

 間違っているかもしれない。

 それでも。

 誰かが話し。

 誰かが聞く。

 それだけで。

 村に小さな光が生まれていった。

 黒い霧が、後退する。

『……やめろ』

 声が震える。

『そんなものは記憶じゃない』

 エイルが言う。

「違う」

 一つ目の灯りは消えている。

 それでも。

 エイルの手の中には、二つの灯りがある。

「記憶って、正確じゃなくてもいいんだ」

 青い灯りが輝く。

「大切なのは――」

 村人たちを見る。

「誰かが、誰かを覚えていたいと思うことだから」

 黒い霧が大きく揺れる。

『……違う』

「違わない」

『忘れるぞ』

「うん」

『また失うぞ』

「それでも」

 エイルは答えた。

「また思い出す」

 その瞬間。

 村の中央にある古い石碑が光った。

 刻まれていた文字が変わっていく。

 ――第一の灯り、消えたり。

 その文字が消える。

 代わりに。

 新しい文字が浮かんだ。

 ――第一の灯り、分かたれたり。

「……消えたんじゃなかった」

 リナが呟く。

 エイルは頷く。

「うん」

 石碑の上に。

 小さな青い光が現れる。

 一つではない。

 二つ。

 三つ。

 十。

 二十。

 やがて。

 村中の人々の手元に、小さな青い光が灯っていく。

 エイルの一つだった灯りが。

 みんなに分かれていった。

 黒い霧が大きく後退する。

 けれど。

 完全には消えない。

 むしろ。

 村の外。

 森のさらに奥に。

 巨大な黒い渦が生まれていた。

 エイルがそちらを見る。

「……あれは?」

 村長――いや。

 まだ自分の名前を思い出せない老人が呟いた。

「……あそこには」

 何かを思い出そうとするように、目を細める。

「昔……塔があった」

「塔?」

「白い塔だ」

 エイルの胸がざわめく。

 霧の中で見た記憶。

 自分が生まれるより前に存在していたという――

 あの白い塔。

「そこに、私たちの最初の記憶がある」

 老人が言う。

「村よりも古い」

「……」

「この世界の記憶が始まった場所だ」

 エイルは森を見る。

 その手の中で。

 二つの灯りが静かに揺れた。

 青。

 白。

 そして。

 遠くの森の奥から――

 もう一つ。

 黒い灯りが、ゆっくりとこちらを照らした。

 エイルはその光を見つめる。

「……行こう」

 リナが頷く。

「うん」

 村を出る前。

 エイルは一度だけ振り返った。

 村人たちはまだ、互いの名前を完全には思い出せていない。

 それでも。

 誰かの手を握り。

 誰かの話を聞き。

 失った記憶を、少しずつ拾い始めている。

 エイルは小さく笑った。

「大丈夫」

 誰に言うでもなく。

「忘れても、また始められる」

 そして二人は。

 白い塔へ向かって歩き出した。

 その背後。

 村の中央で。

 誰かが、ふと呟いた。

「……そうだ」

「何を?」

「思い出した」

 村人たちが振り返る。

 老人は空を見上げていた。

「この村には昔――」

 その顔が青ざめる。

「もう一人、住んでいた。」

「誰?」

 老人は答えようとして――

 言葉を失った。

 名前だけが。

 どうしても出てこない。

 けれど。

 老人の目には、涙が浮かんでいた。

「……あの子は」

 震える声。

「エイルと一緒に――」

 そこで。

 遠くから鐘が鳴った。

 ――カン。

 そして村の全員が。

 理由も分からないまま。

 同じ方向を見た。