第18章「白い樹の記憶」
鐘の音が、森を渡った。
――カン。
たった一度。
けれど、その音は不思議なほど遠くまで届いた。
リーネ村の家々。
森の木々。
夢の泉。
そして、白い樹。
すべてがその音を聞いた。
エイルは走っていた。
目の前にいるセレネへ向かって。
「セレネ!」
「エイル!」
あと少し。
手を伸ばせば届く。
そう思った瞬間――
セレネの姿が揺らいだ。
「……え?」
エイルの足が止まる。
「セレネ?」
彼女の身体から、白い光がこぼれていく。
髪が。
指先が。
服の裾が。
少しずつ光の粒になっていく。
「待って」
エイルが駆け寄る。
「また……消えるの?」
セレネは首を横に振った。
「違うよ」
「じゃあ、どうして……」
「私はずっと、この樹と一緒にいたから」
セレネは白い樹を振り返る。
黒く染まっていた幹の一部が、少しずつ白さを取り戻している。
「霧が薄くなったから」
彼女は微笑む。
「私をここにつなぎとめていた力も、弱くなってるの」
「それじゃあ……」
「うん」
セレネは少し寂しそうに笑った。
「今度こそ、本当にいなくなるかもしれない」
「……嫌だ」
エイルは即座に答えた。
「嫌だよ」
セレネが目を見開く。
「俺は、やっと思い出したんだ」
一歩近づく。
「母さんのことも」
もう一歩。
「昔のことも」
そして。
「セレネのことも」
エイルは手を伸ばした。
今度こそ。
セレネの手を握る。
温かかった。
ちゃんと、生きている人の手の温度だった。
「だから、もう一度忘れるなんて嫌だ」
セレネはしばらく黙っていた。
やがて。
「……困ったな」
小さく笑う。
「昔のエイルなら、私が何を言っても聞かなかったのに」
「今も聞かないよ」
「ふふ」
セレネが笑う。
「そうだったね」
その笑顔を見ていると。
エイルの胸の奥に、忘れていた記憶が次々と戻ってくる。
朝。
昼。
夕暮れ。
雨の日。
雪の日。
セレネと過ごした、何でもない時間。
それらは英雄譚でもない。
世界を救った日でもない。
ただ。
二人が一緒にいた日々だった。
エイルは思った。
――たぶん。
自分が一番忘れたくなかったのは。
こういう時間だったのだ。
⸻
「エイル」
セレネが呼ぶ。
「うん?」
「お願いがあるの」
「何?」
「泉へ行って」
「夢の泉?」
「そう」
セレネは頷く。
「そこに、まだ一つだけ残っているものがある」
「何が?」
「あなたのお父さんの記憶」
エイルの表情が変わる。
「父さんの……?」
「うん」
セレネは静かに言った。
「あなたが知るべき最後の記憶」
「それを見れば、父さんが誰なのか分かる?」
「分かると思う」
「じゃあ――」
エイルが振り返る。
「一緒に来て」
セレネは答えなかった。
ただ、少し困ったように笑った。
「私は、行けない」
「……」
「でも」
セレネがペンダントに触れる。
「あなたが泉で最後の記憶を見つけたら、きっと分かる」
「何が?」
「私が、どうしてあなたを忘れさせたのか」
エイルは黙った。
その言葉には。
まだ何かが隠されている。
そして――
セレネ自身も、それを話すことを恐れている。
「分かった」
エイルは頷いた。
「泉へ行く」
「うん」
「でも、一つ約束して」
「何?」
「俺が戻ってくるまで――」
エイルはセレネの手を握る。
「ここにいて」
セレネは目を丸くした。
「……エイル」
「今度は俺が約束をする」
少し照れたように笑う。
「絶対に戻ってくる」
セレネはしばらくエイルを見つめた。
そして。
「分かった」
小指を差し出した。
「約束」
エイルも小指を絡める。
「約束」
その瞬間。
白い樹から、一枚の葉が落ちた。
葉は二人の間をゆっくりと舞い――
地面に触れる前に、青い光へ変わった。
⸻
「……行こう」
リナが声をかけた。
エイルが振り返る。
「うん」
「でも、その前に」
リナは白い樹を見る。
「村へ戻らないと」
「そうだね」
「みんな、心配してると思う」
「……うん」
二人が歩き出す。
エイルは一度だけ振り返った。
セレネはまだそこにいた。
白い樹の下。
小さく手を振っている。
エイルも手を振り返す。
そして。
森の中へ消えていった。
⸻
しばらくして。
リナが尋ねた。
「ねえ、エイル」
「なに?」
「お父さんって、どんな人だったんだろうね」
「……分からない」
「顔は似てた?」
「たぶん」
「じゃあ、性格は?」
「分からない」
「好きな食べ物は?」
「知らない」
「得意なことは?」
「知らない」
リナが呆れる。
「お父さんについて、何も知らないじゃん」
「うん」
エイルは苦笑した。
「だから、知りたい」
「そっか」
二人は歩き続ける。
やがて。
木々の隙間から、村が見えてきた。
けれど。
何かがおかしい。
「……エイル」
「うん」
村の中央。
広場に人が集まっている。
そして――
誰も話していない。
誰も動いていない。
まるで。
時間そのものが止まっているようだった。
「……どうしたの?」
リナが走り出す。
「待って!」
エイルも追う。
村人たちは立ったまま。
目を開けている。
けれど。
誰もエイルたちを見ない。
「お母さん!」
リナが母親の肩を揺する。
反応がない。
「お母さん!」
その瞬間。
母親がゆっくりと振り返った。
そして。
「……あなた、誰?」
リナの顔から笑顔が消えた。
「……え?」
村人たちが、次々にこちらを見る。
「誰?」
「この子は……誰だ?」
「名前が……思い出せない」
エイルの背筋が凍る。
黒い霧は薄くなったはずだった。
なのに。
なぜ――
そのとき。
村の古い鐘が。
もう一度。
鳴った。
――カン。
そして。
村の中央にある石碑から。
黒い文字が浮かび上がる。
「第一の灯り、消えたり」
エイルの三つの灯りのうち。
一つ目の青い灯りが――
静かに消えた。
鐘の音が、森を渡った。
――カン。
たった一度。
けれど、その音は不思議なほど遠くまで届いた。
リーネ村の家々。
森の木々。
夢の泉。
そして、白い樹。
すべてがその音を聞いた。
エイルは走っていた。
目の前にいるセレネへ向かって。
「セレネ!」
「エイル!」
あと少し。
手を伸ばせば届く。
そう思った瞬間――
セレネの姿が揺らいだ。
「……え?」
エイルの足が止まる。
「セレネ?」
彼女の身体から、白い光がこぼれていく。
髪が。
指先が。
服の裾が。
少しずつ光の粒になっていく。
「待って」
エイルが駆け寄る。
「また……消えるの?」
セレネは首を横に振った。
「違うよ」
「じゃあ、どうして……」
「私はずっと、この樹と一緒にいたから」
セレネは白い樹を振り返る。
黒く染まっていた幹の一部が、少しずつ白さを取り戻している。
「霧が薄くなったから」
彼女は微笑む。
「私をここにつなぎとめていた力も、弱くなってるの」
「それじゃあ……」
「うん」
セレネは少し寂しそうに笑った。
「今度こそ、本当にいなくなるかもしれない」
「……嫌だ」
エイルは即座に答えた。
「嫌だよ」
セレネが目を見開く。
「俺は、やっと思い出したんだ」
一歩近づく。
「母さんのことも」
もう一歩。
「昔のことも」
そして。
「セレネのことも」
エイルは手を伸ばした。
今度こそ。
セレネの手を握る。
温かかった。
ちゃんと、生きている人の手の温度だった。
「だから、もう一度忘れるなんて嫌だ」
セレネはしばらく黙っていた。
やがて。
「……困ったな」
小さく笑う。
「昔のエイルなら、私が何を言っても聞かなかったのに」
「今も聞かないよ」
「ふふ」
セレネが笑う。
「そうだったね」
その笑顔を見ていると。
エイルの胸の奥に、忘れていた記憶が次々と戻ってくる。
朝。
昼。
夕暮れ。
雨の日。
雪の日。
セレネと過ごした、何でもない時間。
それらは英雄譚でもない。
世界を救った日でもない。
ただ。
二人が一緒にいた日々だった。
エイルは思った。
――たぶん。
自分が一番忘れたくなかったのは。
こういう時間だったのだ。
⸻
「エイル」
セレネが呼ぶ。
「うん?」
「お願いがあるの」
「何?」
「泉へ行って」
「夢の泉?」
「そう」
セレネは頷く。
「そこに、まだ一つだけ残っているものがある」
「何が?」
「あなたのお父さんの記憶」
エイルの表情が変わる。
「父さんの……?」
「うん」
セレネは静かに言った。
「あなたが知るべき最後の記憶」
「それを見れば、父さんが誰なのか分かる?」
「分かると思う」
「じゃあ――」
エイルが振り返る。
「一緒に来て」
セレネは答えなかった。
ただ、少し困ったように笑った。
「私は、行けない」
「……」
「でも」
セレネがペンダントに触れる。
「あなたが泉で最後の記憶を見つけたら、きっと分かる」
「何が?」
「私が、どうしてあなたを忘れさせたのか」
エイルは黙った。
その言葉には。
まだ何かが隠されている。
そして――
セレネ自身も、それを話すことを恐れている。
「分かった」
エイルは頷いた。
「泉へ行く」
「うん」
「でも、一つ約束して」
「何?」
「俺が戻ってくるまで――」
エイルはセレネの手を握る。
「ここにいて」
セレネは目を丸くした。
「……エイル」
「今度は俺が約束をする」
少し照れたように笑う。
「絶対に戻ってくる」
セレネはしばらくエイルを見つめた。
そして。
「分かった」
小指を差し出した。
「約束」
エイルも小指を絡める。
「約束」
その瞬間。
白い樹から、一枚の葉が落ちた。
葉は二人の間をゆっくりと舞い――
地面に触れる前に、青い光へ変わった。
⸻
「……行こう」
リナが声をかけた。
エイルが振り返る。
「うん」
「でも、その前に」
リナは白い樹を見る。
「村へ戻らないと」
「そうだね」
「みんな、心配してると思う」
「……うん」
二人が歩き出す。
エイルは一度だけ振り返った。
セレネはまだそこにいた。
白い樹の下。
小さく手を振っている。
エイルも手を振り返す。
そして。
森の中へ消えていった。
⸻
しばらくして。
リナが尋ねた。
「ねえ、エイル」
「なに?」
「お父さんって、どんな人だったんだろうね」
「……分からない」
「顔は似てた?」
「たぶん」
「じゃあ、性格は?」
「分からない」
「好きな食べ物は?」
「知らない」
「得意なことは?」
「知らない」
リナが呆れる。
「お父さんについて、何も知らないじゃん」
「うん」
エイルは苦笑した。
「だから、知りたい」
「そっか」
二人は歩き続ける。
やがて。
木々の隙間から、村が見えてきた。
けれど。
何かがおかしい。
「……エイル」
「うん」
村の中央。
広場に人が集まっている。
そして――
誰も話していない。
誰も動いていない。
まるで。
時間そのものが止まっているようだった。
「……どうしたの?」
リナが走り出す。
「待って!」
エイルも追う。
村人たちは立ったまま。
目を開けている。
けれど。
誰もエイルたちを見ない。
「お母さん!」
リナが母親の肩を揺する。
反応がない。
「お母さん!」
その瞬間。
母親がゆっくりと振り返った。
そして。
「……あなた、誰?」
リナの顔から笑顔が消えた。
「……え?」
村人たちが、次々にこちらを見る。
「誰?」
「この子は……誰だ?」
「名前が……思い出せない」
エイルの背筋が凍る。
黒い霧は薄くなったはずだった。
なのに。
なぜ――
そのとき。
村の古い鐘が。
もう一度。
鳴った。
――カン。
そして。
村の中央にある石碑から。
黒い文字が浮かび上がる。
「第一の灯り、消えたり」
エイルの三つの灯りのうち。
一つ目の青い灯りが――
静かに消えた。