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森の中を走り回って人の気配がないことを確認した後、居住区に意識を凝らす。
しばらく目を閉じ探してみるが、やはり村の方にシエロの気配は見当たらない。
見つからない事に対して焦りが生じ始める。…大丈夫だ、シエロの気配なら見つけられる。
今までもそうだったと言い聞かせるように呼吸を整えて空を仰ぐ。

考えろ。

万一の事態になっているなら誰よりも早く神官が情報を寄越すはずだ。
今のところ不穏な空気は感じていない。

どこだ、と空を仰いでいた時 海風が首筋を撫でた。

−−ここから見える景色が好きなの。
いつか彼女が言っていたことを思い出す。
潮の香りを含んだ風。凪いだ髪が笑顔を隠した場所。

根拠はないが、確信した。
海が一番広く見える神殿裏の岬。きっとそこに、彼女はいる。

森の中、無数に茂る木の根を飛び越えて速度を上げる。
小さな島といえど全踏するにはそれなりの時間がかかるのだ。
早く連れ戻さなくては。

生い茂った木々から一際眩しい光が差し込んだ。

ここを抜ければ岬は目の前。一際強い風を受ければ確かに彼女の気配を感じた。

「シエロ…!」

思わず声を上げれば気付いたように長い髪を靡(なび)かせて振り返る少女。
見つけたことに安堵して息をつく。
しかしそこで、いつも纏っているような底抜けに明るい覇気がないことに気づく。
ゆっくり歩み寄ると、心なしか顔色も悪いように見えた。

「司祭が心配していたぞ」

勿論自分もだが。あえてそこは言わずに声を張り上げなくても届く距離まで近付く。
彼女がポツリと落とした声は、辛うじて聞こえる程度だった。

「心配なのはあたしじゃないよね。“姫巫女さま”が大事だもんね……」

いつもの威勢はどうしたのか。
そんなことはない、と言おうとするが今の状態では何を言っても聞かないような気がした。

ゆるゆると振り返った彼女と視線が合わない。
島の裏手。海へと続く丘の先端に背を向けて静止している。
岩礁と波の当たる音が聞こえた。

「ねえ、クロエ...…あたし、島のそとを見てみたい」

「それは、難しいだろう」

悲しみを湛えた瞳に射ぬかれて思わず息が止まる。
姫巫女という役割は生まれながらに決まっていたと聞く。
彼女はいつも明るく振る舞ってはいるが、それは果たして本当に望んだことなのだろうかと疑問は残る。
それでも、この島にとってなくてはならない存在。
彼女だってわかっているはずだ。

「お前は姫巫女だ。万一のことがあってはならない」

誰でもその役目になれる訳ではない。
羨望と希望を受けながら大切にされてきた島の象徴。
神の宿る地と呼ばれる所以(ゆえん)を、ずっと守り続けてきた。
今までも、これからも。変わることなく受け継がれる慣習。

「都合いいだけのお人形は、やだよ...」

あたしは、あたしなの...。
小さく聞こえた声に返す言葉を探していると、彼女はくるりと向きを変えて海と空の境界に近付いていく。
それ以上行って落ちたら危ない。
刺激しないよう歩幅を合わせて距離を詰めていけば、半身(はんみ)で振り返った口は「ごめんね」と動いていた。

「...ッ、シエロ‼」

事態を理解する前に体は走り出していた。
あろうことか躊躇うことをせずに崖から海へ身を投じた彼女。
落ちたらひとたまりも無いような岩礁がむき出しているのだ。無事で済むはずがない。
その後を全速で追うように崖を飛び降りた。

失うわけにはいかない。
それは島の為ではく、彼女の笑顔を守ると誓った自分に掛けて。
少女を守りぬくと、出会った時から決めていたのだから。

どうして気づいてやれなかったのだろう。
あの笑顔がないことを考えただけで世界は途端に色をなくす。
当たり前に慣れ過ぎてしまった結果だとするなら、今からでも返上する。だから、無くさせない。
シエロを、この世界からいなくならせたりはしない。

潮の匂いが一層強く鼻を突いた。
大きく波を上げる果てしない水の塊に、彼女の体が近付いていく。
一瞬で最悪の展開を想像してしまった思考を抑えこみ、両手を掻くように空を泳ぐ。

シエロが広がりのある衣服を着ているせいか、空中で彼女に追いついた。
目を閉じて風に身を任せている体をたぐり寄せるように腕を伸ばせば、投げ出された細腕まで もう少し。

もう少し。あと、少しで掴めるんだ。

むき出しの岩礁に恐怖を感じた。迫り来る速度が徐々に上がっていく。
それでも必死に手を伸ばす。

「シエロ…手を伸ばせシエロ‼︎」

普段の自分からは想像がつかないくらいの張り上げた声。
もう、海と岩とは目の前だった。
このままでは−–。

そこで彼女は静かにゆっくり目を開ける。
口の中では何かを小さく唱えていた。
一瞬合った視線は真っ直ぐ自分に向けられていて、それはすぐに息を呑むほどの笑顔に変わる。

「celest notte…sereno misstorima」

普段の声音ではなく儀式用の発声から、魔法の呪文だと気付く。
発動と同時に海面から彼女と自分の体が押し上げられ、ゆっくりと着地するような感覚が足に伝わっていた。
思わず足元を確認すれば、釣り用の小さな舟が用意されている。
ゆったりと風に乗って下りてくるシエロを見上げれば、いつものような満面の笑みで手を振っていた。

「すごいねクロエ! ほんとに追いかけてくれるなんて思ってなかった!」

ご満悦な少女はニコニコしながら同じく小舟に降り立つと、してやったりの笑顔で楽しそうに笑う。

謀られたと気付いて額に手を当てた。
精霊の力を使役出来る彼女にとってこれくらいの芸当は当たり前なのだろう。
直に見たことがなかったせいと、相当動転していたことが要因と考えられる。

なんというか、疲れた。どっと疲れた。
それはもう残りの人生の半分くらいを犠牲にしたんじゃないかってくらいの神経を使った気がする。
本来はここで「帰るぞ」と言うべきなのだろう。
しかしここまで準備してあるシエロの事なので次の行動も考えられているに違いない。
なんとも言えない感情の矛先を見つけないまま次の言葉を待つ。

「これでクロエも一緒に島を出られるね!」

「はあ………」

だろうなと。
なんとなく読めてしまったのはそれなりに長く一緒にいるせいか。
それとも薄々わかっていたことだからだろうか。
言い返す言葉もさほど浮かばず盛大なため息をついて返事とした。

自分の中でもやはりシエロは笑っている方がいいらしい。
改めて思ってしまった手前、ここで連れ戻すことも出来なくなった。
つまり、なんとも厄介なことにシエロの気まぐれな家出旅の同行人に強制認定されたようで。
期待を隠せないのか、ずっと嬉しそうな笑いを浮かべているから怒るに怒れないのもタチが悪い。
それでも塞いだ顔よりも笑っていてくれる方がいいなと思ってしまったのだ、仕方がない。

だから誰に命令されるわけでもなく舟に置いてあった櫓(ろ)を手に取って腰を落ち着けた。

「立ってると落ちるぞ」

少々強引に漕ぎだして、ゆるゆると小舟は島を離れていく。

破天荒なルーミエユリ島の姫巫女シエロと苦労人な護衛クロエ。
二人を乗せた小さな手漕ぎの釣り舟は静かにまだ見ぬ世界へと進みだした。
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