その夜、男は珍しく酒をあまり飲まなかった。
宿の裏手、小さな焚き火。
町の灯りは届かず、風の音だけがある。
青年は火を見つめ、男は空を見ていた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「……さっきの人」
青年が言った。
「あなたにとって、大事な人だったんですね」
「だった、じゃねえな」
男は即答した。
「今もだ」
青年は頷いた。
それ以上、踏み込まない。
だが男は、続けた。
「離した理由を、知りたいか」
「……聞いていいなら」
男は、焚き火に薪を一本くべる。
火花が一瞬、夜に散った。
「俺はな」
「はい」
「一緒にいたら、あいつを壊すって分かってた」
青年は目を伏せた。
「殴ったり、縛ったりしたわけじゃねえ」
男の声は低い。
「でも俺は、何も決められねえ男だった」
沈黙。
「明日を約束できない」
「……」
「帰る場所も、仕事も、名前も、軽かった」
青年は、胸の奥がひりつくのを感じた。
それは、どこか自分に似ていた。
「一緒にいる限り」
男は続ける。
「俺の“その場しのぎ”に、あいつの人生を使うことになる」
焚き火が、ぱちりと鳴る。
「だから、離した」
「……守るためですか」
「違う」
男は首を振った。
「逃げるためだ」
「……」
「俺が、ちゃんと生きる覚悟をしなくて済むように」
青年は、はっと息を呑んだ。
それは、正直すぎる答えだった。
「あなたは」
青年は言葉を探しながら続ける。
「それを、間違いだと思っていますか」
男は、少し考えた。
「間違いじゃねえ」
「正解でもない」
「ただ――」
男は焚き火を見る。
「今の俺なら、違う選択をする」
青年は、その言葉を噛みしめる。
「……僕は」
彼は小さく言った。
「離される側の人間です」
男は青年を見る。
逃げずに、しっかりと。
「知ってる」
「なら」
「だからだ」
青年は視線を逸らした。
「あなたが、僕を離さない理由」
「義理じゃねえ」
「同情でもない」
「……なら、何ですか」
男は、焚き火の向こうで笑った。
ほんの少し、自嘲の混じった笑み。
「離したまま生きるのが、もう嫌になった」
青年の喉が、わずかに鳴った。
「……あなたは」
「おう」
「僕を、縛っていますか」
男は即座に首を振る。
「いいや」
「一緒に歩いてるだけだ」
「嫌なら、いつでも離れられる」
その言葉は、自由を与えるものだった。
けれど青年には、不思議と――
逃げ道ではなく、居場所に聞こえた。
「……では」
青年は火を見つめたまま言う。
「明日も、歩きましょう」
「おう」
それだけだった。
男は眠りにつき、
青年はしばらく焚き火を見ていた。
彼はまだ、死にたがりだ。
けれどこの夜、ひとつだけ変わった。
――離される前に消える、という選択肢が、少しだけ遠のいた。
宿の裏手、小さな焚き火。
町の灯りは届かず、風の音だけがある。
青年は火を見つめ、男は空を見ていた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「……さっきの人」
青年が言った。
「あなたにとって、大事な人だったんですね」
「だった、じゃねえな」
男は即答した。
「今もだ」
青年は頷いた。
それ以上、踏み込まない。
だが男は、続けた。
「離した理由を、知りたいか」
「……聞いていいなら」
男は、焚き火に薪を一本くべる。
火花が一瞬、夜に散った。
「俺はな」
「はい」
「一緒にいたら、あいつを壊すって分かってた」
青年は目を伏せた。
「殴ったり、縛ったりしたわけじゃねえ」
男の声は低い。
「でも俺は、何も決められねえ男だった」
沈黙。
「明日を約束できない」
「……」
「帰る場所も、仕事も、名前も、軽かった」
青年は、胸の奥がひりつくのを感じた。
それは、どこか自分に似ていた。
「一緒にいる限り」
男は続ける。
「俺の“その場しのぎ”に、あいつの人生を使うことになる」
焚き火が、ぱちりと鳴る。
「だから、離した」
「……守るためですか」
「違う」
男は首を振った。
「逃げるためだ」
「……」
「俺が、ちゃんと生きる覚悟をしなくて済むように」
青年は、はっと息を呑んだ。
それは、正直すぎる答えだった。
「あなたは」
青年は言葉を探しながら続ける。
「それを、間違いだと思っていますか」
男は、少し考えた。
「間違いじゃねえ」
「正解でもない」
「ただ――」
男は焚き火を見る。
「今の俺なら、違う選択をする」
青年は、その言葉を噛みしめる。
「……僕は」
彼は小さく言った。
「離される側の人間です」
男は青年を見る。
逃げずに、しっかりと。
「知ってる」
「なら」
「だからだ」
青年は視線を逸らした。
「あなたが、僕を離さない理由」
「義理じゃねえ」
「同情でもない」
「……なら、何ですか」
男は、焚き火の向こうで笑った。
ほんの少し、自嘲の混じった笑み。
「離したまま生きるのが、もう嫌になった」
青年の喉が、わずかに鳴った。
「……あなたは」
「おう」
「僕を、縛っていますか」
男は即座に首を振る。
「いいや」
「一緒に歩いてるだけだ」
「嫌なら、いつでも離れられる」
その言葉は、自由を与えるものだった。
けれど青年には、不思議と――
逃げ道ではなく、居場所に聞こえた。
「……では」
青年は火を見つめたまま言う。
「明日も、歩きましょう」
「おう」
それだけだった。
男は眠りにつき、
青年はしばらく焚き火を見ていた。
彼はまだ、死にたがりだ。
けれどこの夜、ひとつだけ変わった。
――離される前に消える、という選択肢が、少しだけ遠のいた。
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