町は、男の過去を覚えていた。
石畳の通りに足を踏み入れた瞬間、
壮年の男はわずかに歩調を落とした。
「……知ってる町ですか」
青年が尋ねると、男は曖昧に肩をすくめる。
「昔な」
それ以上は語らない。
青年はそれを追わなかった。
酒場の看板を見たとき、男は足を止めた。
古い木製の扉。
削れた文字。
青年には、ただの古びた店にしか見えない。
だが、男は――
逃げ遅れたような顔をしていた。
「入るぞ」
「はい」
中は昼間から薄暗く、客も少ない。
カウンターの奥で、ひとりの人物がグラスを磨いていた。
その手が、止まる。
「……あら」
声は低く、落ち着いている。
しかし、その一瞬の沈黙が、すべてを物語っていた。
「生きてたのね」
「そっちもな」
それが、再会だった。
青年は、二人の間に流れる空気を言葉にできなかった。
怒りでも、喜びでもない。
積み重ねた時間そのものが、そこにあった。
「彼は?」
女が青年を見る。
「旅の連れだ」
「へえ」
女は微かに笑った。
「昔のあなたは、誰とも連れ立たなかったのに」
男は返さない。
代わりに、椅子に腰を下ろす。
「……あのときは」
女が言う。
「私を置いて、どこへ行ったの?」
男は、グラスを受け取りながら答えた。
「どこにも行けなかった」
「嘘」
「本当だ」
青年は、その言葉に引っかかりを覚えた。
“行かなかった”ではない。
“行けなかった”。
女はしばらく黙り、やがて息を吐いた。
「あなた、私が待ってたと思う?」
「……思ってない」
「正解」
彼女は、グラスを置く。
「待ってなんて、いられなかった」
「だろうな」
「それでも」
一瞬だけ、視線が揺れた。
「来るかもしれない、って思った夜はあったわ」
男は何も言わなかった。
謝らない。
言い訳もしない。
青年は、そこでようやく理解した。
この男は――
取り返そうとしない人間なのだと。
夜。
二人は酒場を出て、宿へ向かう。
「後悔は、増えましたか」
青年が問う。
「いや」
「減りましたか」
「それもねえ」
男は空を見上げる。
「形が変わっただけだ」
青年は少し考えてから言った。
「……あなたは、離したんですね」
「そうだ」
「逃げたのではなく」
「……ああ」
その言葉に、男は小さく笑った。
「よく見てるな」
「見ていないと、置いていかれそうで」
男は足を止め、青年を見る。
「俺は、もう誰も置いてかねえよ」
「約束ですか」
「癖だ」
それは、以前と同じ言葉だった。
けれど今度は、重みが違った。
青年は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
彼はまだ、死にたがりだ。
だが――
誰かに置いていかれる死に方は、選ばなくなっていた。
石畳の通りに足を踏み入れた瞬間、
壮年の男はわずかに歩調を落とした。
「……知ってる町ですか」
青年が尋ねると、男は曖昧に肩をすくめる。
「昔な」
それ以上は語らない。
青年はそれを追わなかった。
酒場の看板を見たとき、男は足を止めた。
古い木製の扉。
削れた文字。
青年には、ただの古びた店にしか見えない。
だが、男は――
逃げ遅れたような顔をしていた。
「入るぞ」
「はい」
中は昼間から薄暗く、客も少ない。
カウンターの奥で、ひとりの人物がグラスを磨いていた。
その手が、止まる。
「……あら」
声は低く、落ち着いている。
しかし、その一瞬の沈黙が、すべてを物語っていた。
「生きてたのね」
「そっちもな」
それが、再会だった。
青年は、二人の間に流れる空気を言葉にできなかった。
怒りでも、喜びでもない。
積み重ねた時間そのものが、そこにあった。
「彼は?」
女が青年を見る。
「旅の連れだ」
「へえ」
女は微かに笑った。
「昔のあなたは、誰とも連れ立たなかったのに」
男は返さない。
代わりに、椅子に腰を下ろす。
「……あのときは」
女が言う。
「私を置いて、どこへ行ったの?」
男は、グラスを受け取りながら答えた。
「どこにも行けなかった」
「嘘」
「本当だ」
青年は、その言葉に引っかかりを覚えた。
“行かなかった”ではない。
“行けなかった”。
女はしばらく黙り、やがて息を吐いた。
「あなた、私が待ってたと思う?」
「……思ってない」
「正解」
彼女は、グラスを置く。
「待ってなんて、いられなかった」
「だろうな」
「それでも」
一瞬だけ、視線が揺れた。
「来るかもしれない、って思った夜はあったわ」
男は何も言わなかった。
謝らない。
言い訳もしない。
青年は、そこでようやく理解した。
この男は――
取り返そうとしない人間なのだと。
夜。
二人は酒場を出て、宿へ向かう。
「後悔は、増えましたか」
青年が問う。
「いや」
「減りましたか」
「それもねえ」
男は空を見上げる。
「形が変わっただけだ」
青年は少し考えてから言った。
「……あなたは、離したんですね」
「そうだ」
「逃げたのではなく」
「……ああ」
その言葉に、男は小さく笑った。
「よく見てるな」
「見ていないと、置いていかれそうで」
男は足を止め、青年を見る。
「俺は、もう誰も置いてかねえよ」
「約束ですか」
「癖だ」
それは、以前と同じ言葉だった。
けれど今度は、重みが違った。
青年は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
彼はまだ、死にたがりだ。
だが――
誰かに置いていかれる死に方は、選ばなくなっていた。
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