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第17章「失われた名前」


 三つの灯りが消えた。

 青い炎も。

 もう一つの青い炎も。

 白い灯りも。

 すべてが闇に沈む。

「エイル……?」

 リナの声が、遠く聞こえた。

 エイルは答えなかった。

 目の前に浮かんだ名前。

 それを見つめている。

 ――自分が忘れていた名前。

 ずっと昔。

 セレネと出会うよりも前。

 母親に抱かれていた頃よりも前。

 自分が「エイル」と呼ばれるようになるよりも前。

 その名前を――

 知っている。

 なのに。

 思い出したくない。

「……違う」

 エイルが首を振る。

「俺は……エイルだ」

 黒い霧の王が答える。

「そうだ」

「だったら、どうして……」

「その名は、お前が捨てたのではない」

 霧の王の声が響く。

「お前から奪われたのだ。」

 エイルの身体が強張る。

「誰に?」

 沈黙。

「……セレネ?」

「違う」

 即答だった。

「では、母さん?」

「それも違う」

 霧の王が近づいてくる。

「お前自身だ」

「……俺?」

「お前は、生まれたときから二つの名を持っていた」

 エイルは息を呑む。

「一つは、人として生きるための名」

 霧の王が言う。

「それが――エイル」

 そして。

「もう一つは、世界に還るための名」

 胸の奥が、強く脈打った。

「……世界に、還る?」

「お前は人間ではない」

 エイルは目を閉じる。

 すでに知っていた。

 半分は人間。

 半分は精霊。

 でも。

 それだけではなかった。

「お前の父は――」

 そこで霧の王が言葉を止めた。

 エイルが顔を上げる。

「父さんを知ってるの?」

「知っている」

「誰なの?」

「それを知れば――」

 霧の王が静かに言う。

「お前は、自分が何のために生まれたのかを知る」

「……それなら」

 エイルは一歩進んだ。

「教えて」

「まだ早い」

「どうして!」

 初めて、エイルが声を荒らげた。

「俺はずっと探してた!」

 黒い霧が揺れる。

「自分が何者なのか」

「どうしてセレネが俺を守ったのか」

「どうして母さんは俺を手放したのか」

「どうして――」

 声が震える。

「どうして俺だけ、何も知らないまま生きてきたのか!」

 その言葉が森に響いた。

 リナは何も言わなかった。

 ただ。

 エイルの背中を見ていた。

 黒い霧の王も、しばらく沈黙していた。

 やがて。

「……だからだ」

 静かな声。

「何も知らないまま生きることを、お前自身が選んだからだ」

「……?」

「忘却は、いつも誰かに強制されるものではない」

「自分で手放すこともある」

 エイルは言葉を失う。

「お前は、あの日――」

 霧の王の姿が変わった。

 巨大な身体が崩れ。

 無数の顔が消えていく。

 そして。

 一人の少年の姿になった。

 黒い髪。

 灰色の瞳。

 エイルが、さっき見た少年。

「自分の名前を、自分で捨てた」

「……君は」

「まだ、思い出せない?」

 少年は笑った。

「僕は――」

 その瞬間。

 エイルの胸元のペンダントが光った。

 青い光。

 そして。

 少年の姿が、一瞬だけ別の人物に変わる。

 白い髪。

 青い瞳。

 セレネ。

「……セレネ?」

 違う。

 また姿が変わる。

 今度は――

 一人の男性。

 白銀の髪。

 淡い青緑色の瞳。

 エイルによく似た顔。

「……父さん?」

 エイルの声が震えた。

 男性は何も言わない。

 ただ、幼いエイルを抱いている。

 母親が隣にいる。

 セレネもいる。

 三人の大人と、一人の子ども。

 その光景は。

 エイルが今まで見たどの記憶よりも温かかった。

「……こんな時間が……」

 あった。

 父親がいる。

 母親がいる。

 セレネがいる。

 そして。

 幼いエイルが笑っている。

 幸せだった。

 何も知らなくても。

 何も持っていなくても。

 ただ、そこにいるだけで。

 ――幸せだった。

「どうして俺は……」

 エイルが呟く。

「これを忘れたの?」

 少年が答える。

「忘れなければ、生きられなかったから」

「……」

「その日、お前は知った」

 少年が指を伸ばす。

 黒い霧の向こうに。

 巨大な白い樹が現れる。

 その樹の根元には――

 幼いエイル。

 セレネ。

 母親。

 そして父親。

 四人がいる。

 けれど。

 白い樹の上空には。

 巨大な黒い亀裂が広がっていた。

「世界が壊れ始めた日だ」

 少年が言う。

「そして、お前は選んだ」

「何を?」

「自分の幸せを捨ててでも――」

 少年の姿が再び、霧の王へと変わる。

「世界を守ることを」

 エイルの目が見開かれる。

「……俺が?」

「ああ」

「俺が、世界を……?」

「違う」

 霧の王は首を振った。

「世界を守ることを選んだのは――」

 エイルの胸元。

 ペンダントが強く光る。

「お前だけじゃない。」

 その瞬間。

 遠くから声がした。

「エイル!」

 リナだった。

「戻ってきて!」

 エイルが振り返る。

 そこにリナがいる。

 その後ろには。

 小さな青い光が一つ。

 村の灯りだった。

「みんな、待ってる!」

 エイルはその光を見る。

 村。

 リーネ村。

 そこで出会った人たち。

 母親の声を取り戻した人。

 古い歌を思い出した人。

 自分を覚えてくれた人。

 セレネ。

 そして。

 母親。

 失ったものだけではない。

 今、ここにあるものもある。

「……そうか」

 エイルが呟く。

「だから三つ目の灯りは……」

 霧の王を見る。

「命の灯りだったんだ」

「そう」

「過去を取り戻すだけじゃない」

「そう」

「今、生きているものを選ぶための灯り」

「……そうだ」

 エイルは目を閉じた。

 そして。

 自分の胸に手を当てる。

「だったら――」

 小さな光が生まれた。

 最初は、ほんのわずか。

 けれど。

 確かに光っている。

「俺は、エイルでいい」

 青い光が広がる。

「昔の名前を思い出しても」

 もう一つの光が生まれる。

「父さんのことを知っても」

 白い光が戻る。

「セレネを失っても」

 三つの灯りが、再び輝く。

「俺が今まで生きてきた時間まで、否定する必要はない」

 霧の王が静かに見つめる。

 エイルは続けた。

「俺が何者だったのかは――」

 一歩、前へ。

「これから知ればいい」

 黒い霧が、大きく揺れた。

 そして。

 初めて。

 霧の王が笑った。

「……それでいい」

 その声は。

 もう恐ろしいものではなかった。

 どこか懐かしく。

 どこか寂しい。

「ならば、最後の扉を開けろ」

 霧の王が消えていく。

「その先に――」

 黒い霧が一気に晴れる。

「お前が捨てた、本当の名前がある。」

 森に光が戻った。

 そして。

 エイルたちの目の前に。

 白い樹の根元へ続く、一本の道が現れた。

 その先には――

 セレネが立っていた。

 今度は幻ではない。

 彼女は微笑んでいる。

 そして、エイルを見て。

「……おかえり」

 そう言った。

 エイルは涙を拭った。

「ただいま」

 その二人の間に。

 まだ届かないほどの距離がある。

 けれど。

 エイルはもう、走り出していた。

 ――その頃。

 リーネ村では。

 誰も知らなかった古い鐘が。

 87年ぶりに。

 一度だけ、鳴った。

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