第六章 白い花の記憶
目を開ける。
空が青い。
風が暖かい。
鳥の声がする。
エイルはしばらく、何も考えられなかった。
目の前に広がっている景色が、あまりにも懐かしかったからだ。
「……ここ」
白い花が咲いている。
丘の向こうには、巨大な樹。
白い幹。
淡い緑色の葉。
そして枝の先には、無数の青い光が浮かんでいる。
エイルは知っていた。
この場所を。
「……白樹の丘」
口から自然に言葉が出た。
自分でも驚く。
「思い出した……?」
振り返る。
そこに、少女がいた。
白い髪。
淡い青い瞳。
昨日まで何度も夢の中で見ていた少女。
「やっと起きた」
彼女は笑っている。
エイルは言葉を失った。
「……君」
「どうしたの?」
「いや……」
声が震える。
「……やっと会えた」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「ずっと一緒にいたじゃない」
その言葉に、胸が締め付けられる。
そうだ。
ここでは、二人は初対面ではない。
当たり前のように一緒にいる。
それが、この夢の中では自然だった。
「今日は遅かったね」
少女が言う。
「寝坊した?」
「……そうかも」
「珍しい」
彼女は笑う。
「エイルはいつも早いから」
エイルは自分の姿を見る。
今より少し幼い。
服装も違う。
白い外套ではなく、簡素な旅装。
けれど胸元には――
今と同じペンダント。
「これ……」
「大事なものだよ」
少女が言う。
「私があげたから」
「……そうだったね」
エイルは答えた。
それが自然に出てきたことに、自分でも驚く。
少女は嬉しそうに笑った。
「覚えてるんだ」
「うん」
「よかった」
その笑顔を見ていると、エイルは苦しくなった。
この笑顔を、自分は忘れていた。
⸻
二人は丘を下りた。
昔のリーネ村は、今よりずっと賑やかだった。
市場には色とりどりの果物。
通りには子どもたち。
広場では楽器を弾く人。
誰もが笑っている。
そして、村の中心には巨大な白い樹が立っていた。
「今日は祭り?」
エイルが聞く。
「うん」
少女が答える。
「樹の灯りの日」
「何をするの?」
「願い事をするの」
「何を願う?」
少女は少し考えた。
「秘密」
「教えてよ」
「嫌」
「ケチ」
「エイルこそ」
「僕?」
「どうせ『みんなが幸せになりますように』とかでしょ」
エイルは少し考える。
「……それ、いいじゃない」
「やっぱり」
少女が笑う。
「エイルらしい」
「じゃあ、君は?」
「私は……」
少女は白い樹を見上げた。
「みんなが、忘れませんように」
「何を?」
「大切なもの」
その言葉に、エイルは少しだけ引っかかった。
「忘れることって、そんなに悪いこと?」
少女は答えなかった。
代わりに、エイルの手を取った。
「行こう」
「どこへ?」
「秘密の場所」
⸻
村の外れ。
森の奥に、小さな泉があった。
水面に空が映っている。
少女は泉の縁に座った。
エイルも隣に座る。
「ここ、好き」
「僕も」
「静かだから?」
「うん」
「村は嫌い?」
「そうじゃない」
少女は水面を見つめる。
「人が多いと、みんなの夢が聞こえるから」
エイルは少女を見る。
「夢が?」
「うん」
「どんな夢?」
「いろいろ」
少女は指を水につける。
「お父さんに会いたい」
「お店を大きくしたい」
「旅に出たい」
「ずっとこの村にいたい」
「……みんな違う」
「そうだね」
「でも、一つだけ同じ」
エイルは聞く。
「何?」
少女は微笑む。
「みんな、明日も今日と同じだと思ってる」
エイルは黙った。
「それって、幸せなことだと思う?」
「……分からない」
「私も」
少女は笑った。
「だから、ちょっと怖い」
⸻
その夜。
村では祭りが始まった。
白い樹が青く輝く。
人々が樹の周りに集まる。
音楽。
笑い声。
灯り。
エイルは少女の隣に立っていた。
「綺麗だね」
「うん」
「何を願ったの?」
「秘密」
「まだ教えてくれない?」
「うん」
「じゃあ僕も秘密にする」
少女が笑う。
「エイルは何を願ったの?」
「僕も秘密」
「ずるい」
「お互い様」
二人は笑った。
その瞬間。
白い樹の光が、一瞬だけ消えた。
誰も気づかなかった。
エイルだけを除いて。
「……今」
「何?」
「樹の光が」
少女の表情が変わった。
「……見えた?」
「うん」
少女は黙る。
「何か知ってる?」
「……少しだけ」
「教えて」
「まだ駄目」
「どうして?」
「怖いから」
その言葉に、エイルは驚いた。
彼女が「怖い」と言ったのを、初めて聞いた気がした。
「僕が守る」
「……」
「だから教えて」
少女はエイルを見る。
しばらくして、微笑んだ。
「そういうところ、嫌いじゃないよ」
「好きってこと?」
「調子に乗らない」
「はい」
少女は笑った。
その笑顔が――
今のエイルの記憶にある最後の笑顔と重なった。
⸻
その夜。
村が眠りについたあと。
白い樹の下で、二人は話していた。
少女の手には小さな青い石。
「エイル」
「なに?」
「約束して」
「何を?」
「もし私が、何かを忘れても」
エイルは眉を寄せる。
「忘れる?」
「うん」
「どうして?」
「いつか、そうなるかもしれないから」
少女は青い石をエイルに渡した。
「これを持っていて」
「……ペンダント?」
「そう」
「なんで?」
「私が忘れても、エイルが覚えていてくれるように」
エイルは石を握る。
「約束する」
「本当に?」
「うん」
「何があっても?」
「何があっても」
少女は安心したように笑った。
「ありがとう」
そして――
遠くから、鐘の音が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
少女の顔から笑顔が消える。
「……始まった」
「何が?」
少女は答えなかった。
白い樹の根元から、黒い霧が流れ出している。
ゆっくり。
静かに。
地面を這うように。
エイルは立ち上がった。
「これは……」
「エイル」
少女が手を握る。
「逃げて」
「嫌だ」
「お願い」
「君は?」
「私はここにいる」
「じゃあ僕も残る」
「駄目!」
初めてだった。
少女が声を荒げた。
「エイルだけは、絶対にここにいちゃ駄目!」
「どうして!」
「あなたが死んだら――」
少女は言葉を止めた。
そして、涙を流した。
「……全部、終わるから」
黒い霧が迫ってくる。
エイルは少女の手を握り返す。
「だったら一緒に逃げよう」
「できない」
「できる」
「できないの!」
少女は泣いている。
「私は、この樹を守らないと」
「そんな約束、破ればいい」
「駄目」
「どうして!」
少女はエイルの胸に手を当てた。
ペンダントが光る。
「あなたは、生きて」
「……」
「私のことを忘れてもいい」
「嫌だ」
「忘れて」
「嫌だ!」
「お願い……」
少女の声が震える。
「あなたが覚えていたら、あなたまで連れていかれる」
エイルは意味が分からない。
それでも手を離さない。
「約束した」
「……うん」
「何があっても一緒だって」
少女は泣きながら笑った。
「だから……」
彼女はエイルの額に、自分の額を重ねた。
「約束を、逆にするね」
青い光が二人を包む。
「私があなたを忘れさせる」
「……何を?」
「私を」
エイルの視界が白くなる。
「待って!」
「ごめんね」
「嫌だ!」
「ありがとう」
「君の名前――」
少女が微笑む。
最後に一言。
「また会おうね」
光が弾けた。
⸻
エイルは目を覚ました。
冷たい石の床。
地下の部屋。
現実。
リナが隣にいる。
「エイル!」
「……」
エイルは何も言えなかった。
涙が頬を伝っていた。
リナは驚いた顔をする。
「……泣いてる」
エイルは自分の頬に触れた。
「……そうみたい」
「大丈夫?」
「うん」
嘘だった。
けれど今は、それしか言えなかった。
エイルは胸元のペンダントを見る。
「……名前」
「え?」
「思い出した」
リナが息を呑む。
「女の子の名前?」
エイルは頷いた。
けれど、その名前を口にした瞬間。
地下室の奥から、大きな音が響いた。
ドン――。
二人が振り返る。
壁の一部が崩れた。
その向こうから、青い光が漏れている。
そして。
崩れた壁に、一つの言葉が刻まれていた。
――セレネ
エイルは、その文字を見つめた。
「……セレネ」
それが彼女の名前だった。
その瞬間。
村中の人々が、同時に空を見上げた。
忘れていたはずの何かを、
ほんの一瞬だけ思い出したように。
目を開ける。
空が青い。
風が暖かい。
鳥の声がする。
エイルはしばらく、何も考えられなかった。
目の前に広がっている景色が、あまりにも懐かしかったからだ。
「……ここ」
白い花が咲いている。
丘の向こうには、巨大な樹。
白い幹。
淡い緑色の葉。
そして枝の先には、無数の青い光が浮かんでいる。
エイルは知っていた。
この場所を。
「……白樹の丘」
口から自然に言葉が出た。
自分でも驚く。
「思い出した……?」
振り返る。
そこに、少女がいた。
白い髪。
淡い青い瞳。
昨日まで何度も夢の中で見ていた少女。
「やっと起きた」
彼女は笑っている。
エイルは言葉を失った。
「……君」
「どうしたの?」
「いや……」
声が震える。
「……やっと会えた」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「ずっと一緒にいたじゃない」
その言葉に、胸が締め付けられる。
そうだ。
ここでは、二人は初対面ではない。
当たり前のように一緒にいる。
それが、この夢の中では自然だった。
「今日は遅かったね」
少女が言う。
「寝坊した?」
「……そうかも」
「珍しい」
彼女は笑う。
「エイルはいつも早いから」
エイルは自分の姿を見る。
今より少し幼い。
服装も違う。
白い外套ではなく、簡素な旅装。
けれど胸元には――
今と同じペンダント。
「これ……」
「大事なものだよ」
少女が言う。
「私があげたから」
「……そうだったね」
エイルは答えた。
それが自然に出てきたことに、自分でも驚く。
少女は嬉しそうに笑った。
「覚えてるんだ」
「うん」
「よかった」
その笑顔を見ていると、エイルは苦しくなった。
この笑顔を、自分は忘れていた。
⸻
二人は丘を下りた。
昔のリーネ村は、今よりずっと賑やかだった。
市場には色とりどりの果物。
通りには子どもたち。
広場では楽器を弾く人。
誰もが笑っている。
そして、村の中心には巨大な白い樹が立っていた。
「今日は祭り?」
エイルが聞く。
「うん」
少女が答える。
「樹の灯りの日」
「何をするの?」
「願い事をするの」
「何を願う?」
少女は少し考えた。
「秘密」
「教えてよ」
「嫌」
「ケチ」
「エイルこそ」
「僕?」
「どうせ『みんなが幸せになりますように』とかでしょ」
エイルは少し考える。
「……それ、いいじゃない」
「やっぱり」
少女が笑う。
「エイルらしい」
「じゃあ、君は?」
「私は……」
少女は白い樹を見上げた。
「みんなが、忘れませんように」
「何を?」
「大切なもの」
その言葉に、エイルは少しだけ引っかかった。
「忘れることって、そんなに悪いこと?」
少女は答えなかった。
代わりに、エイルの手を取った。
「行こう」
「どこへ?」
「秘密の場所」
⸻
村の外れ。
森の奥に、小さな泉があった。
水面に空が映っている。
少女は泉の縁に座った。
エイルも隣に座る。
「ここ、好き」
「僕も」
「静かだから?」
「うん」
「村は嫌い?」
「そうじゃない」
少女は水面を見つめる。
「人が多いと、みんなの夢が聞こえるから」
エイルは少女を見る。
「夢が?」
「うん」
「どんな夢?」
「いろいろ」
少女は指を水につける。
「お父さんに会いたい」
「お店を大きくしたい」
「旅に出たい」
「ずっとこの村にいたい」
「……みんな違う」
「そうだね」
「でも、一つだけ同じ」
エイルは聞く。
「何?」
少女は微笑む。
「みんな、明日も今日と同じだと思ってる」
エイルは黙った。
「それって、幸せなことだと思う?」
「……分からない」
「私も」
少女は笑った。
「だから、ちょっと怖い」
⸻
その夜。
村では祭りが始まった。
白い樹が青く輝く。
人々が樹の周りに集まる。
音楽。
笑い声。
灯り。
エイルは少女の隣に立っていた。
「綺麗だね」
「うん」
「何を願ったの?」
「秘密」
「まだ教えてくれない?」
「うん」
「じゃあ僕も秘密にする」
少女が笑う。
「エイルは何を願ったの?」
「僕も秘密」
「ずるい」
「お互い様」
二人は笑った。
その瞬間。
白い樹の光が、一瞬だけ消えた。
誰も気づかなかった。
エイルだけを除いて。
「……今」
「何?」
「樹の光が」
少女の表情が変わった。
「……見えた?」
「うん」
少女は黙る。
「何か知ってる?」
「……少しだけ」
「教えて」
「まだ駄目」
「どうして?」
「怖いから」
その言葉に、エイルは驚いた。
彼女が「怖い」と言ったのを、初めて聞いた気がした。
「僕が守る」
「……」
「だから教えて」
少女はエイルを見る。
しばらくして、微笑んだ。
「そういうところ、嫌いじゃないよ」
「好きってこと?」
「調子に乗らない」
「はい」
少女は笑った。
その笑顔が――
今のエイルの記憶にある最後の笑顔と重なった。
⸻
その夜。
村が眠りについたあと。
白い樹の下で、二人は話していた。
少女の手には小さな青い石。
「エイル」
「なに?」
「約束して」
「何を?」
「もし私が、何かを忘れても」
エイルは眉を寄せる。
「忘れる?」
「うん」
「どうして?」
「いつか、そうなるかもしれないから」
少女は青い石をエイルに渡した。
「これを持っていて」
「……ペンダント?」
「そう」
「なんで?」
「私が忘れても、エイルが覚えていてくれるように」
エイルは石を握る。
「約束する」
「本当に?」
「うん」
「何があっても?」
「何があっても」
少女は安心したように笑った。
「ありがとう」
そして――
遠くから、鐘の音が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
少女の顔から笑顔が消える。
「……始まった」
「何が?」
少女は答えなかった。
白い樹の根元から、黒い霧が流れ出している。
ゆっくり。
静かに。
地面を這うように。
エイルは立ち上がった。
「これは……」
「エイル」
少女が手を握る。
「逃げて」
「嫌だ」
「お願い」
「君は?」
「私はここにいる」
「じゃあ僕も残る」
「駄目!」
初めてだった。
少女が声を荒げた。
「エイルだけは、絶対にここにいちゃ駄目!」
「どうして!」
「あなたが死んだら――」
少女は言葉を止めた。
そして、涙を流した。
「……全部、終わるから」
黒い霧が迫ってくる。
エイルは少女の手を握り返す。
「だったら一緒に逃げよう」
「できない」
「できる」
「できないの!」
少女は泣いている。
「私は、この樹を守らないと」
「そんな約束、破ればいい」
「駄目」
「どうして!」
少女はエイルの胸に手を当てた。
ペンダントが光る。
「あなたは、生きて」
「……」
「私のことを忘れてもいい」
「嫌だ」
「忘れて」
「嫌だ!」
「お願い……」
少女の声が震える。
「あなたが覚えていたら、あなたまで連れていかれる」
エイルは意味が分からない。
それでも手を離さない。
「約束した」
「……うん」
「何があっても一緒だって」
少女は泣きながら笑った。
「だから……」
彼女はエイルの額に、自分の額を重ねた。
「約束を、逆にするね」
青い光が二人を包む。
「私があなたを忘れさせる」
「……何を?」
「私を」
エイルの視界が白くなる。
「待って!」
「ごめんね」
「嫌だ!」
「ありがとう」
「君の名前――」
少女が微笑む。
最後に一言。
「また会おうね」
光が弾けた。
⸻
エイルは目を覚ました。
冷たい石の床。
地下の部屋。
現実。
リナが隣にいる。
「エイル!」
「……」
エイルは何も言えなかった。
涙が頬を伝っていた。
リナは驚いた顔をする。
「……泣いてる」
エイルは自分の頬に触れた。
「……そうみたい」
「大丈夫?」
「うん」
嘘だった。
けれど今は、それしか言えなかった。
エイルは胸元のペンダントを見る。
「……名前」
「え?」
「思い出した」
リナが息を呑む。
「女の子の名前?」
エイルは頷いた。
けれど、その名前を口にした瞬間。
地下室の奥から、大きな音が響いた。
ドン――。
二人が振り返る。
壁の一部が崩れた。
その向こうから、青い光が漏れている。
そして。
崩れた壁に、一つの言葉が刻まれていた。
――セレネ
エイルは、その文字を見つめた。
「……セレネ」
それが彼女の名前だった。
その瞬間。
村中の人々が、同時に空を見上げた。
忘れていたはずの何かを、
ほんの一瞬だけ思い出したように。
COMMENT FORM