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第2章忘れられた村

朝。

エイルが目を覚ますと、窓の外から鳥の声が聞こえていた。

旅をしていると、朝の音は場所によって違う。

森なら木々の葉が擦れる音。

街なら人々の足音。

海辺なら波の音。

そしてリーネ村では――

「……鍋?」

階下から、何かを激しくかき混ぜる音がしていた。

エイルはしばらく天井を見つめた。

昨夜のことを思い出す。

青いランタン。

見知らぬ少女。

そして、あの紙に書かれていた言葉。

《忘れられたものは、消えたのではない》

「……夢じゃなかったんだ」

胸元のペンダントに触れる。

冷たい。

昨夜の熱はもう残っていなかった。

エイルはベッドから起き上がり、窓辺に置いていたランタンを手に取った。

淡い水色の光。

いつもと変わらない。

「おはよう」

返事はない。

「……まだ寝てる?」

明滅。

「起きてたんだ」

もう一度、明滅。

「怒ってる?」

明滅。

「やっぱり怒ってる」

エイルは小さく笑った。



一階へ降りると、宿屋の主人が朝食を並べていた。

「おはよう、旅人さん」

「おはようございます」

「昨夜は眠れた?」

「よく眠れました」

「……あの部屋で?」

主人の手が止まった。

エイルは少し考える。

「はい」

「怖くなかった?」

「特には」

「……そう」

主人は、それ以上何も言わなかった。

エイルは席についた。

焼いたパンと、野菜のスープ。

旅人にとってはありがたい朝食だった。

「いただきます」

スープを一口飲む。

「……おいしい」

「そう?」

「はい」

主人は少しだけ嬉しそうに笑った。

そのとき。

宿屋の扉が勢いよく開いた。

「おばさん!」

昨日の少女だった。

茶色い髪を肩のあたりで無造作に切り揃え、眠そうな目をしている。

「また朝ご飯食べてないでしょう」

「食べたよ」

「嘘」

「食べたってば」

「じゃあ何食べたの?」

少女は黙った。

「……パン」

「どこで?」

「……」

主人がため息をつく。

「この子、昨日からずっと何かを探してるのよ」

少女がエイルを見る。

「だって、忘れちゃったんだもん」

「何を?」

エイルが尋ねる。

少女は少しだけ考えた。

「……お母さんの声」

エイルの手が止まった。

「お母さんは?」

「いるよ」

少女は答えた。

「家にいる」

「じゃあ、声を聞けばいいんじゃない?」

「聞こえないの」

その言葉は、あまりにも自然だった。

エイルは少女を見つめる。

「……声だけ?」

「うん」

「顔は分かる?」

「分かる」

「名前は?」

「分かる」

「一緒にいたことも?」

「覚えてる」

少女は首を傾げた。

「でも、声だけ思い出せない」

エイルはランタンを見た。

青い光が、ほんの少し揺れている。

「……なるほど」

少女が目を細める。

「やっぱり、何か知ってるんだ」

「僕も、よく分からない」

「嘘つき」

「本当だよ」

「じゃあ、そのランタンは?」

「これ?」

「うん」

「僕にも分からない」

少女はじっとエイルを見る。

「変なの」

「よく言われる」

「……ちょっと近寄りにくいけど」

「それもよく言われる」

「でも、変な人なのに嘘はつかないね」

「褒めてる?」

「たぶん」

エイルは笑った。



少女の名前は、リナだった。

十歳。

村の北側にある小さな家で、母親と二人で暮らしているらしい。

父親はいない。

けれど、それについてリナは何も言わなかった。

エイルも聞かなかった。

二人は村の中を歩いた。

リーネ村は、昨夜よりもずっと小さく見えた。

人々は畑へ向かい、井戸では女性たちが水を汲んでいる。

穏やかな村。

どこにでもありそうな村。

けれど――

「ねえ、エイル」

「なに?」

「この村、おかしいと思わない?」

「思う」

即答だった。

リナが驚く。

「分かってたの?」

「昨日から」

「何がおかしい?」

エイルは周囲を見渡した。

「誰も、昔の話をしない」

リナは黙った。

「この村に来てから、誰かが昔の話をしているところを見た?」

「……ない」

「それだけじゃない」

エイルは井戸を見る。

「村の建物は古いのに、住んでいる人たちは昔のことを知らない」

「どういうこと?」

「この村には、少なくとも百年近く前から人が住んでいた痕跡がある」

「百年?」

「でも、村人の誰に聞いても、三十年より前のことを話せない」

リナが立ち止まる。

「……どうして?」

「それを調べてる」

エイルはランタンを持ち上げた。

青い光が、村の中央にある古い礼拝堂を照らしている。

「たぶん、あそこに何かある」



礼拝堂は閉鎖されていた。

扉には錆びた鍵。

窓には木の板が打ち付けられている。

リナが扉を見上げた。

「ここ、入っちゃいけない場所だよ」

「そうみたいだね」

「怒られるよ」

「そうだね」

「じゃあ帰ろう」

「うん」

エイルは扉に手をかけた。

「なんで開けるの!?」

鍵がかかっている。

けれど、エイルが触れた瞬間――

カチッ。

鍵が外れた。

「……」

「……」

二人で顔を見合わせる。

「今の、見た?」

「見た」

「エイルがやった?」

「たぶん」

「たぶんって何!?」

「僕も分からない」

扉がゆっくり開く。

中は暗かった。

エイルがランタンを掲げる。

青い光が礼拝堂の奥まで伸びていく。

壁には古い壁画があった。

白い髪の少年。

その手には、青い光を灯したランタン。

エイルが立ち止まった。

「……え?」

リナが壁画を見る。

「これ……」

少年の隣には、巨大な白い樹。

そして、その根元に小さな人影が描かれている。

壁画の一番下には、古い文字が刻まれていた。

エイルが読む。

「『夢を失った者は、記憶を失う』……」

リナが呟く。

「じゃあ、お母さんも……?」

エイルは答えなかった。

ランタンが震えている。

明滅ではない。

まるで――怯えているようだった。

「……ランタン?」

エイルが手を伸ばす。

その瞬間。

視界が白く染まった。



花畑。

一面の白い花。

風が吹いている。

誰かが立っている。

銀色の髪。

白い服。

エイルと同じ姿。

いや。

エイル自身だった。

その前に、誰かがいる。

顔は見えない。

けれど声だけは聞こえた。

『もし、全部忘れてしまっても』

誰かが言う。

『君が旅を続けられるようにしておく』

エイルは夢の中で尋ねる。

「何を?」

『灯りを』

青い光が見える。

『君が見つけるべきものを照らす灯りを』

「……僕は、何を探すの?」

『それは――』

そこで夢が途切れた。



「エイル!」

肩を揺さぶられて、目を開ける。

リナが心配そうにこちらを見ている。

「大丈夫?」

「……うん」

エイルは額に手を当てた。

「ちょっと、夢を見てた」

「どんな夢?」

「……僕の夢」

「変な答え」

「ごめん」

エイルは笑った。

けれど、その笑顔はいつものものとは少し違っていた。

何かを思い出しかけている。

そんな感覚だけが残っている。

礼拝堂の奥を見る。

そこには小さな石碑があった。

石碑には、一つの名前だけが刻まれている。

――エイル。

「……」

息が止まる。

リナも気づいた。

「エイル?」

少年は石碑の前まで歩いた。

指で名前をなぞる。

古い。

何十年、あるいは何百年も前のものだろう。

なのに――

自分の名前が刻まれている。

「どうして……」

エイルの胸元で、ペンダントが光った。

同時にランタンも輝く。

青い光が石碑から天井へ伸びる。

そして、礼拝堂の壁画が淡く浮かび上がった。

白い樹。

銀髪の少年。

そして、その隣に立つ一人の少女。

少女の顔だけが、削り取られていた。

エイルはそれを見つめた。

なぜか、涙が出そうになった。

「……知ってる」

「え?」

「この人を……僕は知ってる」

でも、思い出せない。

名前も。

声も。

顔も。

何一つ。

それなのに――

胸だけが、その存在を覚えている。

「誰……なんだろう」

そのとき。

礼拝堂の外から鐘の音が響いた。

一度。

二度。

三度。

村中に鳴り響く。

リナが窓の外を見る。

「……おかしい」

「どうしたの?」

「この鐘……」

青ざめた顔でエイルを見る。

「鳴らす人、もういないの」

エイルはゆっくりとランタンを握り直した。

青い光が、礼拝堂の奥を指している。

壁画のさらに奥。

隠された扉。

その向こうから――

誰かの声がした。

『……エイル』

少年は息を呑む。

その声を知っている。

ずっと探していた。

けれど、思い出せない。

『……やっと、帰ってきたね』

エイルのペンダントが、強く光った。

そして村の外。

誰もいないはずの森の中で、

一つ。

また一つ。

青い灯火が灯り始めた。

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