5

朝は、驚くほど静かだった。

宿を出ると、町はまだ眠っている。
石畳は夜露を含み、足音がやけに響いた。

青年は少し離れて歩き、
壮年の男は、通りの端で立ち止まった。

そこに彼女がいた。

夜の酒場とは違い、
髪はきちんとまとめられ、
仕事を始める前の顔をしている。

「行くのね」
「ああ」

それだけで、十分だった。

彼女は男を見て、
ほんの一瞬だけ、昔の距離を測るような目をする。

「連れがいるのね」
「いる」
「……不思議」

彼女はそう言って、息を吐いた。

「昔のあなたは、誰かと並ぶのが苦手だった」
「今も得意じゃねえ」
「でも、逃げなくなった」

男は返事をしなかった。
否定も、肯定も。

彼女は、青年の方をちらりと見てから、男に戻る。

「ねえ」
「なんだ」
「私、あなたを許す気はないわ」

男は、動じなかった。
それを予期していたように。

「でも」
彼女は続ける。
「恨み続けるほど、あなたに人生を使う気もない」

朝の風が、二人の間を通り抜ける。

「それでいい」
男は言った。
「それでしか、なかった」

彼女は少しだけ笑った。
それは優しさではなく、
区切りの笑顔だった。

「あなたがいなくなったあと」
彼女は静かに言う。
「私は、私の人生を生きた」
「……」
「あなたが戻らなくても、壊れなかった」
「強いな」
「ええ」

誇るでもなく、淡々と。

「だから」
彼女は一歩、距離を取る。
「あなたも、あなたの人生を生きなさい」

それは、送り出しではない。
祝福でもない。

ただ――
相互不可侵の宣言だった。

男は帽子を深くかぶり、頷く。

「……あんたもな」
「ええ」

一瞬、視線が交わる。
昔の熱はない。
未練もない。

それでも、確かに――
一度、同じ道を歩いた者同士の重さだけが残っていた。

男は踵を返す。

数歩行ってから、彼女は言った。

「その青年」
「おう?」
「手を離さないであげなさい」

男は、立ち止まらなかった。

「離さねえ」
「そう」

それが最後の言葉だった。



町を出る坂道で、青年が言う。

「……彼女は、優しい人ですね」
「優しくはねえ」
「でも、強い」
「それは、そうだ」

青年は、しばらく黙ってから続けた。

「あなたは」
「ん?」
「離したことを、忘れませんね」
「忘れねえよ」
「それでいいんですか」
「それでしか、生きられねえ」

青年は、小さく息を吸った。

「……なら」
「おう」
「僕も、忘れないでいようと思います」
「何をだ」
「置いていかれなかった朝を」

男は、何も言わなかった。
ただ、歩き出す。

青年も、それに続く。

町は背後に遠ざかり、
旅はまた、名前のない道へ戻っていく。

彼らはまだ途中だ。
だがこの朝、
誰も縛らず、誰も縋らない別れ方を、確かに覚えた。