朝は、驚くほど静かだった。
宿を出ると、町はまだ眠っている。
石畳は夜露を含み、足音がやけに響いた。
青年は少し離れて歩き、
壮年の男は、通りの端で立ち止まった。
そこに彼女がいた。
夜の酒場とは違い、
髪はきちんとまとめられ、
仕事を始める前の顔をしている。
「行くのね」
「ああ」
それだけで、十分だった。
彼女は男を見て、
ほんの一瞬だけ、昔の距離を測るような目をする。
「連れがいるのね」
「いる」
「……不思議」
彼女はそう言って、息を吐いた。
「昔のあなたは、誰かと並ぶのが苦手だった」
「今も得意じゃねえ」
「でも、逃げなくなった」
男は返事をしなかった。
否定も、肯定も。
彼女は、青年の方をちらりと見てから、男に戻る。
「ねえ」
「なんだ」
「私、あなたを許す気はないわ」
男は、動じなかった。
それを予期していたように。
「でも」
彼女は続ける。
「恨み続けるほど、あなたに人生を使う気もない」
朝の風が、二人の間を通り抜ける。
「それでいい」
男は言った。
「それでしか、なかった」
彼女は少しだけ笑った。
それは優しさではなく、
区切りの笑顔だった。
「あなたがいなくなったあと」
彼女は静かに言う。
「私は、私の人生を生きた」
「……」
「あなたが戻らなくても、壊れなかった」
「強いな」
「ええ」
誇るでもなく、淡々と。
「だから」
彼女は一歩、距離を取る。
「あなたも、あなたの人生を生きなさい」
それは、送り出しではない。
祝福でもない。
ただ――
相互不可侵の宣言だった。
男は帽子を深くかぶり、頷く。
「……あんたもな」
「ええ」
一瞬、視線が交わる。
昔の熱はない。
未練もない。
それでも、確かに――
一度、同じ道を歩いた者同士の重さだけが残っていた。
男は踵を返す。
数歩行ってから、彼女は言った。
「その青年」
「おう?」
「手を離さないであげなさい」
男は、立ち止まらなかった。
「離さねえ」
「そう」
それが最後の言葉だった。
⸻
町を出る坂道で、青年が言う。
「……彼女は、優しい人ですね」
「優しくはねえ」
「でも、強い」
「それは、そうだ」
青年は、しばらく黙ってから続けた。
「あなたは」
「ん?」
「離したことを、忘れませんね」
「忘れねえよ」
「それでいいんですか」
「それでしか、生きられねえ」
青年は、小さく息を吸った。
「……なら」
「おう」
「僕も、忘れないでいようと思います」
「何をだ」
「置いていかれなかった朝を」
男は、何も言わなかった。
ただ、歩き出す。
青年も、それに続く。
町は背後に遠ざかり、
旅はまた、名前のない道へ戻っていく。
彼らはまだ途中だ。
だがこの朝、
誰も縛らず、誰も縋らない別れ方を、確かに覚えた。
宿を出ると、町はまだ眠っている。
石畳は夜露を含み、足音がやけに響いた。
青年は少し離れて歩き、
壮年の男は、通りの端で立ち止まった。
そこに彼女がいた。
夜の酒場とは違い、
髪はきちんとまとめられ、
仕事を始める前の顔をしている。
「行くのね」
「ああ」
それだけで、十分だった。
彼女は男を見て、
ほんの一瞬だけ、昔の距離を測るような目をする。
「連れがいるのね」
「いる」
「……不思議」
彼女はそう言って、息を吐いた。
「昔のあなたは、誰かと並ぶのが苦手だった」
「今も得意じゃねえ」
「でも、逃げなくなった」
男は返事をしなかった。
否定も、肯定も。
彼女は、青年の方をちらりと見てから、男に戻る。
「ねえ」
「なんだ」
「私、あなたを許す気はないわ」
男は、動じなかった。
それを予期していたように。
「でも」
彼女は続ける。
「恨み続けるほど、あなたに人生を使う気もない」
朝の風が、二人の間を通り抜ける。
「それでいい」
男は言った。
「それでしか、なかった」
彼女は少しだけ笑った。
それは優しさではなく、
区切りの笑顔だった。
「あなたがいなくなったあと」
彼女は静かに言う。
「私は、私の人生を生きた」
「……」
「あなたが戻らなくても、壊れなかった」
「強いな」
「ええ」
誇るでもなく、淡々と。
「だから」
彼女は一歩、距離を取る。
「あなたも、あなたの人生を生きなさい」
それは、送り出しではない。
祝福でもない。
ただ――
相互不可侵の宣言だった。
男は帽子を深くかぶり、頷く。
「……あんたもな」
「ええ」
一瞬、視線が交わる。
昔の熱はない。
未練もない。
それでも、確かに――
一度、同じ道を歩いた者同士の重さだけが残っていた。
男は踵を返す。
数歩行ってから、彼女は言った。
「その青年」
「おう?」
「手を離さないであげなさい」
男は、立ち止まらなかった。
「離さねえ」
「そう」
それが最後の言葉だった。
⸻
町を出る坂道で、青年が言う。
「……彼女は、優しい人ですね」
「優しくはねえ」
「でも、強い」
「それは、そうだ」
青年は、しばらく黙ってから続けた。
「あなたは」
「ん?」
「離したことを、忘れませんね」
「忘れねえよ」
「それでいいんですか」
「それでしか、生きられねえ」
青年は、小さく息を吸った。
「……なら」
「おう」
「僕も、忘れないでいようと思います」
「何をだ」
「置いていかれなかった朝を」
男は、何も言わなかった。
ただ、歩き出す。
青年も、それに続く。
町は背後に遠ざかり、
旅はまた、名前のない道へ戻っていく。
彼らはまだ途中だ。
だがこの朝、
誰も縛らず、誰も縋らない別れ方を、確かに覚えた。