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今でも思い出す。
私が“私”を選んだ時のきっかけ。

『俺が口説きたくなるくらいいい女になったら、考えてやるよ』

姿も思い出せないようなその人に。
きっとずっと、恋をしているのだ。


◇ ◇ ◇

「パタラさん。本日はとびきりの歌をお願いします」

控室に顔をのぞかせた給仕係からのいつもは受けないようなオーダーを受けた。
そんなことを言われなくてもどの回だってとびきりの歌を提供しているはずだ。
何か不備でもあったのだろうか。特に怒っているわけでは無いと表すために小首を傾げながら訪ねてみた。

「私がステージで手を抜くような心配をさせてしまったかしら?」

「いえ、言葉が足りず申し訳ありません。
店からの意向ではなく新規のお客様がいずれ商談に使いたい、とびきりの歌を聞かせてくれとの仰せでした」

なるほど、と合点がいって手短に了承を伝えれば給仕係は頭を下げて持ち場に戻っていく。

歌を歌うことは物心ついた時から好きだった。
人魚という種族は歌好きだと思われているがまったくもってその通りである。
どの世代の人魚も暇さえあれば常に歌っているし自分では無いものを聞いては新しい曲を作りまた他者に聞かせる。
そうやって自動的に研鑽を積んでいくような場所が生まれ故郷であるがゆえに歌うことは当たり前といっても過言ではなかった。
人魚という種族は水中に入れば元の魚の性質が強く出るが陸上での生活も問題はないのできれいなものが好きなパタラは高級な酒場のシンガーとして在籍している。夜のよく似合う場所で年代物の珍しい酒なども取り扱っていた。
当然のように体躯の大きなガードマンがいるしお手当ても十分にもらっている。
生活と身の安全が保障されているのは何よりの利点だった。
人並み以上にある美意識と、歌のお陰で少し有名な歌い手として街でも名が売れ始めてきたのも面白いと思える要因でもある。

時間になったので鏡の前で身支度を済ませ、ふわりと笑って見せた。

薄暗くはあるが程よく調光の整えられたバーのスペースに入るとしっとりとした楽器音と優雅に場所を楽しむ程よい談笑が聞こえてきた。
毛足の長いカーペットを踵の高い靴で歩けば沈み込む感触が気持ちいい。
カツ、と音を立てて一段上がったステージに立てば楽器の音が馴染みのあるものへと変わった。
軽く笑みを顔にまとわせればいつも通りに気持ちのいい空間へと早変わりする。




歌い終わって近くのテーブル客に挨拶をした後ステージを降りると控室に続く廊下で緩やかな銀髪が印象的な長身の男性が壁に背中を預けてボトムスのポケットに指を入れていた。
たしか、中央付近で背の低いグラスを揺らしながら飲んでいた人物。
歌いながら席を見回すのはいつものことだが、おそらく初見のお客。
かなり印象的な見た目をしているので間違いない。
グラスの形で大体の濃度は把握できるが顔色が変わっていないところを見るとかなり酒に強い事がうかがえた。
酔っている様子もないしまともに目が合うので思わずにこ…っっと人好きのする笑みを浮かべる。

「ステージはどうだったかしら?楽しんでもらえた?」

「ああ、最高だった。これなら商談にも役立ちそうだ」

対する相手は値踏みするような視線をよこしながらニヤッと人の悪そうな笑みを浮かべた。
物言いから察するにとびきりの歌という注文をしてきた客なのだろう。
その人物は壁から背を離すと不遜とも思える堂々とした態度で寄ってきた。
かと思えば自然な動作で顎を片手で掬い上げられ強制的に見上げる格好になってしまった。

「あんた、いいな。俺の女にならねーか?」

吐息のかかる距離で片眉を上げた笑いを浮かべる行為に多少の不躾さを感じはするが揶揄っているわけではない事は色眼鏡越しに見える視線が真っ直ぐであることが物語っている。
酒を扱う場所にいれば絡まれることはよくあることなので慣れた動作で顎に添えられた手に両手を添えてやんわりと腕を降ろさせる。

「ごめんなさいね。良かったらまた見に来て頂戴」

営業用の笑顔を浮かべれば大抵の人物は駄目だということが伝わるのでスムーズに諦めてくれることが多い。
若干可哀想ではあるがそのまま振り返らず控室に足を向けるのがいつのもの行動だった。
ただ、今回のお客はどうやらいつも相手にするお客よりも自信に溢れている人物だったらしい。

後ろ手首を掴まれて引き止められる。
流石にしつこいと店の迷惑にもなるので守衛係を呼ぼうとした所で器用に手首を返されそのまま壁に体を縫いとめられる形になった。所謂壁ドンというやつの体勢。
自信過剰というわけではないらしく確かに顔は整っているし身長も高い。
商談という話しから考えると、ある程度やり手の商人なのだろう。
しかも壁に付けられている手は痛いとは言えないほどの絶妙な力加減なので振り払うのが些か困難でもあった。
さてどうしようかと思案していると少し衝撃を受ける言葉が紡ぎ出された。

「あんた人魚だろ」

「……あら正解。どうしてわかったの?」

「歌の中に人間にはない発音があった」

「見た目によらず博識なのね」

別段隠しているというわけではないが微細な部分なので公表している訳でもない。
流石に言い当てられたのははじめてだった。
しかも発音で、というと陸上生活は長い方なのでかなりシビアな判定が必要になる。

「そうでもねェさ。俺もその音を検知できる種族ってだけで」
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