一軒家6人暮らし
家族構成 母、父、妹、祖父、祖母、私
祖母:脳梗塞で倒れて以降半身不随と食事療法が必要
祖父:本人に自覚のない痴呆(指摘すると反論して怒る)を抱えながら祖母の介護
父:近くの精密部品工場で働いていたが体調不良を理由に休むことが多く
私が高校3年の夏に会社の倒産に伴って退社
以降働かず家でパソコンゲームの毎日、肥満体
妹:今時の女子高校生、反抗期
母:上記の人間を抱えながら家事を全てこなし近くのガス製品工場に勤務
負けん気の強い性格と世間体を気にする気風のせいで弱音が吐けず途中からどんどん狂っていく
口癖が「今お父さんが死んでくれたら保険金が入るのに」
フジモト:低血圧
進学するつもりのなかったフジモトは高校3年間を就活だと考え
野球部のマネージャー、クラス委員、生徒会長、地域のボランティア活動、3年間皆勤賞
制服の着崩しを一回もしたことがなく雨が降ろうと雪が降ろうと自転車通学
卒業式の送辞や成人式の代表の言葉を読み上げている
そのおかげで小島プレスの子会社にストレート就職
☆運転免許の取得 韓国旅行の関係で1発合格しか許されない話
就職してすぐ東日本大震災発生
週4日休み→100時間残業の日々へ
生産の現場だったが女性の割合が多く主張の強い人が多かったので
ここでも自分の意思を抑え繕って聞き分けのいい人物でいようと努めていた
心の支えとしてやっていたボランティアで責任の大きな場所についてしまい
休むと組織が止まってしまうので唯一の休み日曜日は仕事より早く起きて毎週ボランティアという名前の労働
土曜日は巻き返しのための出勤があるので実質の休みはない状況が続く
少しでも母の負担が減ればと給与の総支給×2割の繰り上げ(途中から5万の定額)を毎月家に入れていて積立の貯金もしていたので手元に残る金額が2万の時もあった
その中でも日々の生活の中で早起きをして母の洗濯干しを一緒にやりつつ
母の愚痴を聞いて聞き入れ「それでもありがとう」をずっと唱えていた
清濁を選別し濁のみを飲み込む所業を繰り返す
毎日死にたいと思っていた
誰も私を必要とせず、誰からも見えない設定で 休みもなく救いもなく
無理に繕って笑っているうちに自分の意思決定の力が無くなっていることにも気がついていたが仕事でも意思は必要とされていなかったのでとにかく私が耐えればいいと思っていた
検査判定がシビアな製品なので一つのミスが大損害になることもわかっていたので日々失敗をしないことに尽力していた
母の狂気が増してきた辺りで波長の波を読む術を身につけ始める
近づくと口撃されるタイミングがなんとなくわかるようになってきた
「その日」の朝もいつものように冷たい洗濯物を母と干していた
連日の休みがない中で疲弊していた私は虚になりながらも母の愚痴を聞いていた
この生活がいつまで続くのだろう
なにも改善されずむしろ悪化しているこの状況が限界を感じはじめていた
そんな時に母からの何気ない一言で私は「死」というものを明確に味わった
私の赤子時代は夜泣きのひどい子供だったらしく
父は私が生まれた当初浮気をしていたことが母にバレたらしく
子育てにはほとんど参加しない父と当時は集合住宅に住んでいたこともあって
夜泣きのストレスは相当だったらしい
そんな前置きから言われた言葉は
「あの時ベランダから落とされなくて 良かったね。
本気で落としてやろうと何度思ったことか」だった
この人の助けになればと思ってやってきたことも
全て無意味だったように思えて。
今までのパターンから私はここでも
「それでもありがとう」を言わないといけなかったのだけど
この時ばかりは喉が音を発することを拒否して ただ空虚に笑うしかできなかった。
過呼吸になりそうなのを必死で堪えて出社したのだけは覚えているけど
その日どう過ごしたかは憶えていない。
幸運だったのはそこから1ヶ月もしないで20歳の誕生日を迎えるのを思い出したこと
すぐに不動産屋を探して親の印鑑なしで部屋を借りれるようになった次の週に部屋を契約したという話
ここまでが「私が死んだ時」の話の顛末です。
家族構成 母、父、妹、祖父、祖母、私
祖母:脳梗塞で倒れて以降半身不随と食事療法が必要
祖父:本人に自覚のない痴呆(指摘すると反論して怒る)を抱えながら祖母の介護
父:近くの精密部品工場で働いていたが体調不良を理由に休むことが多く
私が高校3年の夏に会社の倒産に伴って退社
以降働かず家でパソコンゲームの毎日、肥満体
妹:今時の女子高校生、反抗期
母:上記の人間を抱えながら家事を全てこなし近くのガス製品工場に勤務
負けん気の強い性格と世間体を気にする気風のせいで弱音が吐けず途中からどんどん狂っていく
口癖が「今お父さんが死んでくれたら保険金が入るのに」
フジモト:低血圧
進学するつもりのなかったフジモトは高校3年間を就活だと考え
野球部のマネージャー、クラス委員、生徒会長、地域のボランティア活動、3年間皆勤賞
制服の着崩しを一回もしたことがなく雨が降ろうと雪が降ろうと自転車通学
卒業式の送辞や成人式の代表の言葉を読み上げている
そのおかげで小島プレスの子会社にストレート就職
☆運転免許の取得 韓国旅行の関係で1発合格しか許されない話
就職してすぐ東日本大震災発生
週4日休み→100時間残業の日々へ
生産の現場だったが女性の割合が多く主張の強い人が多かったので
ここでも自分の意思を抑え繕って聞き分けのいい人物でいようと努めていた
心の支えとしてやっていたボランティアで責任の大きな場所についてしまい
休むと組織が止まってしまうので唯一の休み日曜日は仕事より早く起きて毎週ボランティアという名前の労働
土曜日は巻き返しのための出勤があるので実質の休みはない状況が続く
少しでも母の負担が減ればと給与の総支給×2割の繰り上げ(途中から5万の定額)を毎月家に入れていて積立の貯金もしていたので手元に残る金額が2万の時もあった
その中でも日々の生活の中で早起きをして母の洗濯干しを一緒にやりつつ
母の愚痴を聞いて聞き入れ「それでもありがとう」をずっと唱えていた
清濁を選別し濁のみを飲み込む所業を繰り返す
毎日死にたいと思っていた
誰も私を必要とせず、誰からも見えない設定で 休みもなく救いもなく
無理に繕って笑っているうちに自分の意思決定の力が無くなっていることにも気がついていたが仕事でも意思は必要とされていなかったのでとにかく私が耐えればいいと思っていた
検査判定がシビアな製品なので一つのミスが大損害になることもわかっていたので日々失敗をしないことに尽力していた
母の狂気が増してきた辺りで波長の波を読む術を身につけ始める
近づくと口撃されるタイミングがなんとなくわかるようになってきた
「その日」の朝もいつものように冷たい洗濯物を母と干していた
連日の休みがない中で疲弊していた私は虚になりながらも母の愚痴を聞いていた
この生活がいつまで続くのだろう
なにも改善されずむしろ悪化しているこの状況が限界を感じはじめていた
そんな時に母からの何気ない一言で私は「死」というものを明確に味わった
私の赤子時代は夜泣きのひどい子供だったらしく
父は私が生まれた当初浮気をしていたことが母にバレたらしく
子育てにはほとんど参加しない父と当時は集合住宅に住んでいたこともあって
夜泣きのストレスは相当だったらしい
そんな前置きから言われた言葉は
「あの時ベランダから落とされなくて 良かったね。
本気で落としてやろうと何度思ったことか」だった
この人の助けになればと思ってやってきたことも
全て無意味だったように思えて。
今までのパターンから私はここでも
「それでもありがとう」を言わないといけなかったのだけど
この時ばかりは喉が音を発することを拒否して ただ空虚に笑うしかできなかった。
過呼吸になりそうなのを必死で堪えて出社したのだけは覚えているけど
その日どう過ごしたかは憶えていない。
幸運だったのはそこから1ヶ月もしないで20歳の誕生日を迎えるのを思い出したこと
すぐに不動産屋を探して親の印鑑なしで部屋を借りれるようになった次の週に部屋を契約したという話
ここまでが「私が死んだ時」の話の顛末です。
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